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四コマなのに…『ののちゃん』いしいひさいち氏の自費出版本に「言い知れぬ感動」

読み終えた時に押し寄せる、複雑な「感情」

いしいひさいち氏が自主制作マンガの展示即売会「コミティア」向けに制作した「ドーナツ・ボックス」(オフィス安藤)。同誌において『ROCA』の連載も行われた
いしいひさいち氏が自主制作マンガの展示即売会「コミティア」向けに制作した「ドーナツ・ボックス」(オフィス安藤)。同誌において『ROCA』の連載も行われた

 地元での路上ライブやライブ会場の仕切り、FM局やレコード会社との折衝など、音楽もの王道のサクセスストーリー的な展開はあれど、そこはやはりいしいひさいちさん。ベースはあくまで四コマギャグで、一本一本小気味よいギャグできちんとオチをつけながら、三歩下がって四歩進むような勢いのロカの成長を、着実に積み上げていきます。

 そう、本作の特筆すべき点は、いしいひさいちさんの作品には珍しく成長を主軸にしたストーリーマンガ、それも青春物語と言っていい作品であることです。

 青春とは、何者でなかった自分が何者かになるーー理想の自分を夢見て、それを実現するために現実と向き合う期間といえるでしょう。その「何者か」になる過程で、多くの挫折とごく稀な成功体験を重ねて、人は少しずつ成長していきます。

 同時に、それまで意識していなかった自分と周囲=他者との差異に揺れ動きながら、自己を確立していく時期でもあります。
 そして、いつしか優しく包んでいてくれていた身内から離れ、ひとりの大人として世界と対峙するようになるのです。

『ROCA』は、こうした変化や心の揺れを、研ぎ澄まされたギャグを交えた109本のエピソードで丁寧に描き連ねていきます。

 最初は人前で歌うことさえためらっていたロカが、後に美乃に「お客がゼロでも、30人でも歌がぜんぜん変わらん」と褒められて、自分は「お客さんのための歌うとらんのじゃろか」と悩む場面。待望のメジャーデビューを果たしたロカが、周囲の才能に打ちひしがれ、美乃に電話すると、地元にいた時と変わらずただ「バカ」と言われたけれど、ただその一言で落ち着きを取り戻す場面。

 可笑しさのあまり読み進めた読者は、いつしかロカも自分も始まりの場所から遠く離れた世界へと来ていたことを知るのです。青春の最中はただ夢中で、自分がどこにいるのか何をしているのか気づかないように。

『ROCA』以外のいしいひさいちさんの作品に、これまで青春を描いたものがなかったわけではありません。

 たとえば野球部の岡田くんが女子部員の島田さんにほのかな恋心を抱く『ののちゃん』内での連載内連載や、かつて「コミックトム」誌上に連載された菊地、久保、鈴木という、ファンにはお馴染みのキャラクターが、部費調達や強豪校との練習試合に挑む『山田三中野球部日記 ゲームセット』などが挙げられます。

 それでも『ROCA』ほど、真正面から青春や成長を描いた作品はなかったように思います。どんなナンセンスなギャグも連綿と続く(だからこそ尊いとも言えるのですが)日常に回帰する『ののちゃん』の世界から『ROCA』が飛び出し、独立した作品になったのも、ごく自然な成り行きでしょう。

 そして『ROCA』が、青春物語にならねばならなかったおそらく最大の理由が、ファドに不可欠とされる 「サウダージ」という感情です。

 ポルトガル語で、大まかには「郷愁」や「思慕」と訳されることもありますが、正確には「無邪気で幸福だった日々を懐かしむ気持ち」「もう戻れない過去を思う切なさ」といった、他の言語ではひとつの単語で表すことのできない複雑に入り混じった感情を示す言葉だそうです。

 こうした説明を読んでも、ポルトガルにもファドにも疎い自分には、どんな感情なのか、正直実感はできませんでした。

 しかし『ROCA』を読み終えた今なら、それがわかる気がします。

 本を閉じ、さっきまで浸っていた『ROCA』の世界を思い起こした時、胸にこみ上げる、日本語ではただ「感動」としか言えない思い。これが、おそらく「サウダージ」と呼ばれる感情なのでしょう。

 ただ面白いだけでも、切ないだけでも、儚いだけでもない、複雑にからみ合った、言葉にならない新たな感動……『ROCA 吉川ロカ ストーリーライブ』は、読者をそんな新たな地平に連れて行ってくれる一冊です。そして、それはおそらく50年にわたりナンセンスギャグを描き続けてきた、いしいひさいち先生だからこそ、たどりついたであろう境地なのです。

(倉田雅弘)

【画像】驚異!「連載1万回」を突破した、いしいひさいち作品(5枚)

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