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さらなる”ドラマ性”をーー池上遼一が切り拓いたマンガ表現と劇画の相互関係

1950年代後半、貸本マンガに登場した"劇画"は、その後大手出版社のコミック誌を席巻。マンガ界に一大ブームを巻き起こし、マンガ表現にも影響を与えています。当時劇画を描いていた漫画家の1人、池上遼一さんが初めて少年週刊誌に連載した『追跡者』(原作・辻真先)を収録する『追跡者×拳銃野郎』(立東舎、2019年1月18日発売)を監修・編集したメモリーバンクの綿引勝美さんに、お話を聞きました。

Gペンのシャープな線による"劇画"表現

 みなさんは劇画というと、どのようなイメージを持つでしょうか。『ゴルゴ13』(さいとう・たかを/小学館・リイド社)に代表されるような、太い眉毛の濃いキャラクター、リアルなストーリーといったものではないでしょうか。

 手塚治虫さんが開拓したストーリーマンガから派生するように生まれた”劇画”。その誕生の裏にはどのような出来事があったのでしょうか。秋田書店の「週刊少年チャンピオン」創刊当時から著名な漫画家を担当し、独立後もマンガやアニメなどをはじめさまざまな企画、制作を続けている綿引勝美さんに話を聞きました。
 
――綿引さんと劇画の関わりを教えてください。

 私は幼い頃からマンガが好きでした。学生時代に漫画研究会を作っていたこともあって、マンガ誌の編集をやりたかったんです。そこで、秋田書店に1968(昭和43)年に入社しました。

 当時、秋田書店は少年週刊マンガ誌を持っていませんでした。社内は編集以外にも制作とか営業とかいろいろな部署があるのですが、新卒で入った同期は私も含め7人全員が編集部に配属されました。会社としては、『週刊少年チャンピオン』を創刊する腹づもりがあって、編集者を鍛えておかないといけないという思惑があったんだと思います。

 私は最初は『まんが王』編集部に配属され、後に手塚治虫先生の『ブラックジャック』を企画した壁村耐三編集長の下で、マンガ編集者としてスタートしました。当時の『まんが王』は部数が伸びないでいました。

 そこで壁村編集長に「好きにやっていいぞ」と言われ、池上遼一、山上たつひこ、沼田清といった先生方を起用しました。彼らは、劇画と呼ばれる作品を多く扱っていた大阪の出版社、日の丸文庫などで活躍していた作家ですね。

現在もマンガに関わり続ける、綿引勝美さん(マグミクス編集部撮影)
現在もマンガに関わり続ける、綿引勝美さん(マグミクス編集部撮影)

――劇画といえば、Gペンの力強いタッチが印象的です。

 手塚治虫先生の絵は、丸を中心にして描いています。これがなかなか難しい。丸を描くとき、普通なら原稿を回して描くんですけど、手塚先生はペンの向きを変えないで一気に描く。これには驚かされました。

 さいとう・たかを先生の絵は、Gペンを使った、鋭い線の絵ですね。貸本劇画で有名な南波健二先生も最初は”マンガ調の絵”だったんですが、力強いGペンの線に憧れて、さいとう先生の弟子になって劇画を描き始めるのです。

 さいとう先生も『台風五郎』(さいとう・たかをがGペンを使い始めたとされる初期の劇画作品・編集部注)以前の作品では”マンガ調”の『黒い子猫』シリーズを描いてます。『台風五郎』でGペンの鋭い線に目覚めて、それに影響を受けた新しい人たちが出てくるんですが、池上遼一先生は、そのあとの世代ですね。

――劇画にもいろいろあるんですね。

 日の丸文庫で辰巳ヨシヒロ先生が1950年代に描き始めたのが、劇画のスタートです。劇画は、ドラマ性に主眼を置いたものです。人間が敵対したときに、どういう反応をするのかをリアルに描く。辰巳先生の『黒い吹雪』(辰巳ヨシヒロがドラマ性を求めて試行錯誤の結果生み出した作品・編集部注)が、その精神を端的に表していますね。

 劇画といっても、その作風はいろいろです。たとえば松本正彦先生は、どちらかというとマンガ調の絵でしたが、ストーリーはリアル。医学生が解剖実習の遅れを取り戻そうとして頭部を持ち出し、それが見つかって事件になる。そういうシリアスな話も劇画といえます。

 青年コミック誌が誕生して劇画が圧倒的に人気になったものだから、青年向けのマンガはすべからく劇画にしてしまうということもありました。劇画といえば、さいとう先生みたいな絵、リアルな絵ということになる。

 そんなふうに一括りにされてしまったこともあって、辰巳ヨシヒロ先生などは目指していたものとは違うものになり、苦労されたんじゃないかなと思います。

50年を経て復刻、池上遼一『追跡者』のスリルあふれるシーン(10枚)

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