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「24時間テレビ」の裏側は地獄だった? 手塚治虫アニメ『バンダーブック』の最恐エピソード

まさか! 放送2か月前になっても、白紙状態

『バンダーブック』の翌年、24時間テレビで放映された『海底超特急マリン・エクスプレス』DVD(ジェネオン・ユニバーサル)
『バンダーブック』の翌年、24時間テレビで放映された『海底超特急マリン・エクスプレス』DVD(ジェネオン・ユニバーサル)

 多くの視聴者を楽しませた「アニメスペシャル」ですが、その制作現場は過酷さを極めました。このあたりの事情は、実録マンガ『ブラック・ジャック創作秘話 手塚治虫の仕事場から』の第1巻「アニメ地獄」で詳しく語られているので、ぜひ手に取ってみてください。

 アニメスペシャル第1弾となった『バンダーブック』は、原作者である手塚治虫氏自身が脚本なしで、絵コンテから手がけることになっていました。しかし、当時の手塚氏はマンガの連載を8本抱えており、放送2か月前になっても、絵コンテはほぼ手づかず状態でした。原画を依頼していた外注先のアニメスタジオからは、苦情が殺到します。そんな不穏な状況のなか、「手塚プロ」の制作担当デスクが失踪してしまいます。

 白紙状態の原画パートは、手塚治虫氏がみずから描き、驚異的な集中力でリカバーしていきました。しかし、本当の生き地獄はここから始まったのです。放送日まで1か月を切りながら、ようやく完成したシーンに対し、手塚氏は「リテイク(描き直し)」を何度も命じたのです。最後の3日間、スタッフは完全徹夜だったそうです。

 当時、「手塚プロ」で漫画部のアシスタントを務めていた漫画家の石坂啓さんのエッセイ集『お金の思い出』を読むと、「会社に出入りするアニメ部の人員はピークを迎えており、朝出社するとビルの廊下にそのままゴロンと倒れて眠っている人たちがいっぱいいた」と、疲れ切ったスタッフたちがマグロのように床に転がって寝ていたことが語られています。

宮崎駿監督が述べた追悼の言葉

 翌1979年に放映された『マリン・エクスプレス』は、さらに恐ろしい伝説が言い伝えられています。放送日当日を迎え、すでにアニメスペシャルの放送が始まっていたにもかかわらず、後半パートの作業がまだ行われていたそうです。

 スタッフはもちろん、日本テレビの放送関係者たちも生きた心地がしなかったのではないでしょうか。どんなに納品日が、いや放送時間が迫っていても、決して妥協しようとしなかった手塚治虫氏のこだわりが恐ろしく思えてきます。

 毎年のように殺人的スケジュールを「手塚プロ」のスタッフは味わったわけですが、誰も手塚治虫氏を責めることができませんでした。マンガの連載も抱え、いちばんハードなはずの手塚氏がどのスタッフよりもいちばん働いていたからです。「働き方改革」が進む現代から見れば、あまりにも問題の多すぎる職場です。でも、当時のスタッフたちは「神さま」手塚治虫と一緒に仕事ができることが、とてもうれしかったと振り返っています。

 手塚治虫原作によるアニメスペシャルは、1989年8月に放映された『手塚治虫物語 ぼくは孫悟空』まで計9本が制作され、手塚氏はその構想中だった1989年2月に60歳で亡くなっています。

 手塚治虫氏を追悼した雑誌「Comic Box」1989年5月号にて、『魔女の宅急便』(1989年)の公開を控えていた宮崎駿監督はしんらつさを交えながらも、最後を次のような言葉で締めています。

「亡くなったと聞いて、天皇崩御のときよりも“昭和”という時代が終わったんだなと感じました。彼は猛烈に活動力を持っている人だったから、人の三倍位やってきたと思う。六十歳で死んでも百八十歳分生きたんですよ。天寿をまっとうされたと思います」

 手塚治虫氏は、その生涯を全力で生きたことは間違いありません。夏が来るたびに、『バンダーブック』をはじめとするアニメスペシャルのことが思い出されます。

(長野辰次)

※2023年7月28日から、手塚プロダクション公式YouTubeチャンネルで『100万年地球の旅 バンダーブック』前編が限定公開中です。

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