「イカれてる」「本当にゲーム?」ファミコン世代を震撼させた「伝説の怪作ソフト」とは
世の中には「クソゲー」の枠におさまりきらない「怪作」とでも呼ぶべきゲームが存在します。「常識ハズレのゲーム性」「原作の雰囲気ぶち壊し」など、それらがファミコン屈指の怪作と呼ばれる理由に迫ります。
「クソゲー」の枠におさまらない「怪作」の存在
「怪作」の意味を調べると「常識にとらわれない、怪しげで不思議な作品」を指す言葉のようです。そしてゲームの世界でも、同じような意味合いで「怪作」と呼ばれるタイトルがあります。
そういえば筆者が子供の頃に夢中になって遊んだファミコンでも、今考えると「怪作」と呼ぶにふさわしいゲームタイトルがあったことを思い出しました。
●これは本当にゲームなのか? 『マインドシーカー』
「怪作」の意味を知り、真っ先に頭に思い浮かんだのが、1989年4月にファミコン用ソフトとして発売された『マインドシーカー』(ナムコ)です。パッケージには「超能力開発ソフト」と銘打たれており、超能力者として一世を風靡したエスパー清田氏が監修したゲームでした。
「超能力開発」といえば、伏せたカードの絵柄を言い当てるなどのトレーニングが思い浮かぶのではないでしょうか。それをそのままファミコンゲームに落とし込んだのが『マインドシーカー』です。
「念力」「予知」「透視」といったトレーニングが用意されており、いずれも複数の選択肢のなかから正解を当てるだけ、というシンプルな内容です。そこに正解の確率を上げるヒントやコツなどの攻略要素が介在する余地はありません。シンプルに「己の勘を頼りに正解を当てていくのみ」という、究極の運頼み(あるいは超能力頼み)ゲームだったのです。
ひとりで『マインドシーカー』をプレイしているときの感情を言い表すとすれば、それは「虚無」です。ひたすら同じことを繰り返すうちに感情の揺れ幅が小さくなり、たまに連続成功しても真顔でボタンを押し続けるようになります。
「◯回成功させる」というゲームの進行条件を満たしたときですら、特別な喜びや達成感のような感情が生まれないのも、完全に「運」だけで決まるゲームだったからにほかなりません。そこにプレイヤーの技術的な向上は一切ないのですから。
まるで修行でもしているかのような、『マインドシーカー』のストイックすぎるゲーム性は、まさに「怪作」と呼ぶにふさわしいものです。いや、あれは本当にゲームだったのでしょうか……。