手塚治虫は『ブラック・ジャック』 に救われた? 実写化前に振り返る誕生秘話
手塚治虫先生の不朽の名作であり、2024年には実写ドラマ化が予定されている『ブラック・ジャック』は、手塚先生の復活のきっかけとなる大切な作品でした。今回は、最新の実写ドラマを楽しむために知っておきたい、『ブラック・ジャック』の歴史を解説します。
『ブラック・ジャック』は手塚治虫先生の引退作品
手塚先生の代表作であり、不朽の名作『ブラック・ジャック』は1973年11月から「週刊少年チャンピオン」で連載が開始されました。ほぼ毎回1話完結の構成で重厚な物語を描き、主人公のブラック・ジャックをはじめピノコやドクター・キリコなど数多くの人気キャラを生み出し、医療マンガの金字塔として現在も語り継がれています。
当時の「チャンピオン」では『バビル2世』や、『ドカベン』など少年向けの連載が多く、わかりやすいストーリーが求められているなかで、命の尊厳と正面から向き合った『ブラック・ジャック』は異色の作品と言われていました。そして、意外にも連載開始当初は不遇だったのです。
手塚先生は1946年に『マアチャンの日記帳』で漫画家としてデビューし、翌年には初の単行本『新宝島』が40万部を売り上げます。その後も『メトロポリス』(1949年)『ジャングル大帝』(1950年)『鉄腕アトム』(1952年)と立て続けにヒット作を連発し、天才作家の名をほしいままにしていました。
しかし1968年に『鉄腕アトム』の連載が終了し、さらに1972年に『火の鳥』も一時的に終わる(1976年から再会)と、手塚作品は勢いを失いはじめます。その背景にあるのが「劇画ブーム」でした。
1960年代後半から70年代にかけて、漫画界では空前の「劇画ブーム」が到来しました。さいとう・たかを先生の『ゴルゴ13』に代表されるリアルな描写を追求した漫画が主流になります。
「劇画ブーム」の煽りを受けたのが手塚先生です。手塚先生の特徴である曲線的で細部を省略した画風は親しみやすく、誰にとっても読みやすいと好評でしたが、ディテールにとことんまでこだわった劇画調の作品が主流になると、「古くさい作風」と言われるようになりました。
『海のトリトン』(1969年)『ブッダ』(1972年)などコアなファン向けの作品は評価を受けていましたが、 大ヒットはありませんでした。そんななかで始まった『ブラック・ジャック』の連載も当然、ほとんど期待されていなかったようです。
手塚先生とゆかりの深い関係者で、秋田書店の編集局長である沢考史(さわ・たかふみ)氏は、以前手塚治虫公式WEBサイトに掲載されたインタビューで『ブラック・ジャック』について語っています。
沢氏によれば、手塚作品の人気が低迷していたなかで『ブラック・ジャック』の連載が始まったきっかけは、当時の編集長・壁村耐三氏の言葉だったのことです。壁村氏といえば手塚先生に「手塚の死に水をとる」と伝えたという有名な話があるのですが、沢氏は「手塚先生に直接言ったわけではなく、壁村さんが編集部内で担当編集者に言った言葉」とコメントしていました。
壁村さんは「手塚先生はもうだめ」と思っていた周りの編集者に発破をかけるため、「手塚の死に水をとる」と発言したようです。