「ファミコン大成功」の背後にアメリカの「大コケ」が? ゲームビジネスの基礎を作った任天堂
1983年に発売された『ファミリーコンピュータ』の成功は、アメリカのゲーム業界による「大コケ」がなければ成し得なかったといわれています。任天堂はアメリカの失敗を踏まえ、現在まで続くゲームのビジネスモデルの基礎を作ったのです。
「アタリショック」の失敗によって生まれたファミコンビジネスの成功
1983年に発売された『ファミリーコンピュータ(以下、ファミコン)』は家庭用ゲーム機として広く普及し、その人気によって各社から1000以上のゲームタイトルが発売されました。順風満帆に見えるファミコンビジネスですが、その成功の裏にはアメリカのゲーム業界による「大コケ」があったのです。
アメリカの家庭用ゲーム機といえば、1977年にアメリカのアタリ社から発売されて爆発的なブームを巻き起こした『Atari2600』が有名でした。しかしソフトを販売するにあたって制限を一切設けなかった結果、質の悪い作品が出回るようになり、消費者離れを止めることができずにアメリカのゲーム業界は崩れていきました。それが「アタリショック」といわれる出来事です。
任天堂はサードパーティーによるファミコンソフトの供給を導入する際、アタリショックの再来を防ぐため、粗悪品が氾濫(はんらん)しないように「委託生産方式」を構築しました。この方式は自社以外のメーカーも含めてファミコンのゲームカセットを任天堂が一括して製造するシステムのことで、別名「任天堂商法」ともいわれています。
例えばファミコンゲームを売り出したいメーカーは完成したゲームが入ったマスターROMを任天堂に提出し、さらに製造したい本数も注文します。任天堂は依頼された本数を製造してメーカーに卸す……という流れになり、これで任天堂は流通をコントロールしようとしました。
しかし、例外もありました。初期のファミコンソフトといえば、メーカーによって形状が違っていたことを覚えている人も少なくないでしょう。たとえば「発光ダイオード」を搭載したアイレムや、ソフトの側面にギザギザのラインが入ったバンダイ、ソフトの上面にラベルが貼ってあるナムコなどが挙げられます。
こういったファミコン初期に参入した古参メーカーは委託生産方式が確立される前から自社でゲームカセットを製造していました。任天堂による委託生産方式が定められた後も何らかの経緯があって、古参メーカーによる独自デザインのカセットが流通していました。
また任天堂は、徹底した管理体制にするべく「ソフトライセンス制度」も導入しています。まず本体に装着できないなどのソフトの規格によるトラブルを回避するため、任天堂が直接チェックして基準を満たしていないものは発売できないようにしました。
上述したように、サードパーティーから発注されたカートリッジの希望生産量を任天堂がメーカーに納品することのほか、「製造費とロイヤリティは全額前払い」という規定も定めました。この規定によってアタリショックのような、資金力がないメーカによるゲームソフトの粗製乱造を防ぐことができただけでなく、理想だったソフト供給と流通のコントロールも可能になったのです。
このビジネスモデルはゲーム機の発売で赤字を出しても、サードパーティーによるソフトのロイヤリティ収入でカバーできるという大きなメリットがあり、現在に至るまでのゲームライセンスビジネスの基礎となりました。
また、このビジネスモデルは、1985年に発売された海外版のファミコン『Nintendo Entertainment System』をきっかけに、アメリカのゲーム業界にも浸透し、アタリショックによって崩壊していたゲーム市場を立て直すのでした。
ファミコンが現代においても広く愛好されるゲームハードになった要因として、豊富なゲームタイトルや時代を先取りした周辺機器などに加えて、任天堂が作り上げた「ビジネスモデル」もあったということを、忘れてはならないでしょう。
(LUIS FIELD)