『ママとあそぼう!ピンポンパン』の思い出 画面の中の姉が不思議だった幼少期
1966年から1982年まで放送された『ママとあそぼう!ピンポンパン』(1970年4月から1971年9月までは『みんなであそぼう!ピンポンパン』)。個性的な歌のお兄さん、お姉さんが、子役や一般の子供たちと楽しく歌う教育番組で、『ひらけ!ポンキッキ』と並びフジテレビの朝の顔といえる存在でした。
自分も「おもちゃの木」に飛び込みたかった

1966年10月3日から1982年3月31日まで放送された『ママとあそぼう!ピンポンパン』(1970年4月から1971年9月までは『みんなであそぼう!ピンポンパン』)は、個性的なマスコットキャラや歌のお兄さん、お姉さんたちとともに一般参加の子供たちが歌って踊る子供番組でした。特に番組の最後、「おもちゃの木」に用意されたおもちゃを取りに行く様子は、番組を見ていた子供たちにとって大きな憧れでした。姉が『ピンポンパン』に出演した際に「おもちゃの木」から持ち帰ってきた、お人形さんの家がうらやましくて仕方がなかったライターの早川清一朗さんが当時の悔しさを語ります。
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その日、まだ小さかった筆者は、父親が務めていた会社の社宅の、若い女性社員の方の部屋に預けられていた記憶があります。
やがて迎えに来た母親と共に家に帰ると、姉がピンク色のお人形さんの家で楽しそうに遊んでいました。そう、この日の母と姉は『ピンポンパン』の収録に出かけていたのです。姉が遊んでいるお人形さんの家は、当然「おもちゃの木」から持ち返ってきたもの。 いつも『ピンポンパン』でおもちゃを我先にと取りに行く子供たちをうらやましく思っていましたが、この日は目の前におもちゃを持ち帰った姉がいるのです。それは悔しくてうらやましくて仕方がありませんでした。
ちなみに一時、『ピンポンパン』のおもちゃはあとで回収されるといううわさが立ったことがありますが、姉に確認したところ、そんなことはなくおもちゃはそのまま持ち帰れたそうです。おもちゃをもらって大喜びしている子供たちから取り上げようものならみんな泣き叫ぶでしょうし、お母さんたちだって怒るでしょうから、よく考えれば回収は無理な話でしょう。
なお、母に出演の経緯を確認したところ、「幼稚園のバスが一緒だった他のお母さんが出ようと言い始めて、いつのまにか出演が決まった」ということでした。特に事務所に所属する必要もなく、そんな軽いノリでTV番組に出られたというところに、時代を感じます。1975年以降は「ビッグ・マンモス」という子役グループがレギュラー出演しており、姉の出演はそれ以降のため、子役グループと一般の子供が一緒に出演していたのではないかと思われます。
その後しばらくしてから放送された姉の出演回は、内容こそもう覚えていませんが、河童のカータンと姉が同じ画面のなかにいるのを、とても不思議な気分で見ていたような記憶があります。