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『鬼滅の刃』キャラのファッションに込められた意味 時代の先端を走っていた!

『鬼滅の刃』と言えば、個性豊かな着物や羽織、その他のファッションアイテムまで細かく作り込まれているところも大きな魅力です。この記事では、改めてキャラクターたちがまとうファッションの意味、それがどのくらい時代の先端を走っていたのかご紹介します。

キャラクターの個性に合ったファッション

市松模様をまとう炭治郎 (C)吾峠呼世晴/集英社・アニプレックス・ufotable
市松模様をまとう炭治郎 (C)吾峠呼世晴/集英社・アニプレックス・ufotable

『鬼滅の刃』と言えば、着物や羽織、その他のファッションアイテムがキャラクターの個性に合わせて細かく作られているところも大きな魅力です。日本だけでなく海外のファンまでもが『鬼滅』コスプレを楽しむ様子を日々SNSに投稿しています。この記事では、改めてキャラクターたちがまとうファッションの意味と、それがどのくらい時代の先端を走っていたのかご紹介します。

●羽織の柄が持つ意味

 まずは、鬼殺隊の隊士たちの個性豊かな羽織についてです。竈門炭治郎の羽織は世界でもさまざまなデザインに取り入れられている「市松模様」。江戸時代の人気歌舞伎役者・佐野川市松が舞台『心中万年草』で、この柄の袴を穿いていたことで人気が出たと言われています。その意味は「繁栄」で、四角形が組み合わさった模様が途切れることなく続いていることから言われています。「ヒノカミ神楽」などの重要な技をはじめ、いろいろな人の想いを受け継いで戦う炭治郎にピッタリと言える柄です。

 続いて我妻善逸の羽織は三角形を組み合わせた「鱗文」という模様。魔除けや厄除けの意味を持っているのと同時に、女性のなかに眠る魔性の部分も表しているそうです。まさに、ここぞという時に眠った才能が発揮される善逸にピッタリな柄と言えそうです。また『鬼滅の刃 遊郭編』では、善逸たちが遊女として遊郭に潜入した際、上司の宇髄天元の雑な扱いに対して善逸が奮起し「一流の遊女になって見返してやる!」と覚醒するシーンがあるのですが、これももしかしたら「鱗文」を背負う善逸の魔性の部分が目覚めたということなのかもしれません。

 続いて水柱・冨岡義勇の羽織は六角形を並べた「亀甲」という模様。字の通り、亀の甲羅の形です。亀は長寿の象徴であることから「長寿」、縁結びで有名な出雲大社の神紋にも使われていることから「良縁」の意味があると言われています。物語の最初で炭治郎と出会い、禰豆子を救う道へのキッカケとなった義勇がこの模様を背負っていることはやはり縁があるのかもしれません。この他にも炭治郎の師匠である鱗滝左近次の羽織の「青海波」は「平和な暮らしへの願い」、禰豆子の羽織の「麻の葉」は「強力な魔除け」「健やかな成長」と、キャラクターのイメージに合った模様が使われています。

時代の先端を行く鬼殺隊のファッション

 続いては、『鬼滅の刃』キャラたちのファッションが時代の流行と比べてどうだったのか見ていきます。

●時代の流れに乗った隊服

 そもそも日本に洋服が広まったのは明治時代からと言われています。しかし当時、洋服は庶民にとっては高価でなじみのないものだったため、まずは軍人や駅員の制服などから取り入れられたそうです。ここから洋装は格式高いイメージが広まりました。その後、徐々に学校の制服にも洋服が採用されるようになると、『鬼滅の刃』の舞台である大正時代で、ようやく庶民にとっても身近なものになったそうです。これを考えると鬼殺隊の隊服はしっかり時代の流れをつかんでいたと言えます。

 また着物の柄について……明治初期は茶色や灰色のものが多かったのが、徐々に青色などのバリエーションが増え始め、大正時代になってようやく外国の花をイメージしたものなど鮮やかなデザインが出て来たと言われています。

 これを考えると「市松模様」「鱗文」「蝶」「炎」などあらゆるデザインの羽織を自分で組み合わせていた隊士たちのセンスはかなり高いと言えます。

●ヘアカラーとアイテム

 ほかのファッションについても炭治郎たちは先端を行っています。まずはヘアカラー。炭治郎は赤みがかった髪の色、善逸は金髪(黄色)……など隊士たちは髪の色も個性があります。「マンガのキャラだから」というのはいったん置いて、当時の日本のヘアカラー事情を見ると……江戸時代の頃から売られ始めた「白髪染め」の化粧品が庶民の間で広まって来たのが明治・大正ぐらいだそうです。つまり現代では当たり前の「ヘアカラー」が広まるのはまだ先のこと。これを考えると、カラフルな隊士たちの髪は相当アバンギャルドだったと言えます。

 さらに炭治郎がしている耳飾りや宇髄天元のピアスですが……ピアスの文化が洋服とともに日本に流れて来たのは明治の頃(それ以前の古墳時代などにも文化はあったそうですが)。しかしファッションとして現代のように日本で広まったのは戦後からと言われていますから、これもかなり時代を先取りしていたと言えます。

※禰豆子の「禰」は「ネ」+「爾」が正しい表記

(吉原あさお)