宮崎駿監督幻の米デビュー作『リトル・ニモ』 企画途中で離脱も、数々の出会いと「名作」が生まれ…
『千と千尋の神隠し』でアカデミー賞長編アニメーション賞を受賞した宮崎駿監督ですが、かつて日米合作アニメ『NEMO/リトル・ニモ』に参加していたことをご存知でしょうか。本稿では宮崎駿監督の幻のアメリカデビュー作となった同作の制作経緯を紹介します。
国産アニメのアメリカ進出を目指した企画
2021年9月に開館したアカデミー映画博物館(米ロサンゼルス)で、その開館記念企画として宮崎駿氏の回顧展「Hayao Miyazaki」が開催されています。同展はイメージボードや絵コンテ、レイアウトほか300を超える資料を展示する本格的なもので、付随して劇場デビュー作『ルパン三世 カリオストロの城』から『風立ちぬ』まで11作の長編監督作品と、ドキュメンタリー作品『夢と狂気の王国』などが上映されています。
1999年の『もののけ姫』公開で本格的なアメリカ進出を果たし、次作『千と千尋の神隠し』で第75回アカデミー賞長編アニメーション賞を受賞した宮崎駿監督はアメリカでも高く評価されていますが、そこに至るまでの道のリは決して平坦なものではありませんでした。1985年にアメリカで『風の谷のナウシカ』が『Warriors of the Wind』(風の戦士たち)のタイトルで公開された際には、無断でキャラクターの名を変えられたうえ、本編も20分近く短縮されており、後で知った宮崎駿監督は激怒したそうです。
実は、そこから遡り1982年に宮崎駿氏はアメリカでの監督デビューの機会をつかんでいました。後に1989年に公開されることになる日米合作の劇場アニメ『NEMO/リトル・ニモ』に、故・高畑勲氏とともに日本側の演出として参加していたのです。両氏は早い段階で離脱しますが、同作の企画は後の宮崎駿監督作品、そして日米のアニメーション界全体に決して無視できない影響を与えています。
映画『NEMO/リトル・ニモ』は、東京ムービー社長(当時)の藤岡豊氏がプロデューサーを務めて先導した企画です。原作は、ウィンザー・マッケイの1ページ完結の新聞連載漫画『リトル・ニモ』で、少年ニモが夢のなかでさまざまな世界を旅して回り、最後は毎回ベッドで目覚める……という内容で、ウォルト・ディズニー・スタジオでも映画化の企画が二度上がったといわれる人気作です。
かねてより日本製アニメのアメリカ進出を考えていた藤岡豊社長は、1977年に『リトル・ニモ』の映像化権取得に乗り出し、同作を制作するためのスタジオ、テレコム・アニメーションフィルム(以下、テレコム)を設立します。しかし制作費調達やスタッフ編成が難航し、実作業になかなか入れなかったため、テレコムは新人アニメーターの指導を受け持った大塚康生氏のもと、TVシリーズ『ルパン三世』(2期)や、日本アニメーションから移籍してきた宮崎駿氏の監督作品『ルパン三世 カリオストロの城』、高畑勲氏の監督作品『じゃりん子チエ』を手掛けることになりました。
そして藤岡氏は、自社テレコムの実力をアピールするため、アメリカで『ルパン三世 カリオストロの城』と『じゃりん子チエ』の関係者向け上映会を度々開催します。