アニメの「原作改変」はなぜ起こる 脚本と原作の難しい関係【この業界の片隅で】
「あーだこーだ言われる」のも脚本家の仕事
原作が長期にわたって継続している場合ですと、その一部を切り取る形で全12話のアニメシリーズに収めるというようなことも、ひんぱんに行われます。
原作では「次回につづく」となっているお話を、脚本上でどのように終わらせたら良いでしょうか? 無理に完結させなくてもよいから原作をそのまま引き写した形でやってくれと言われるケースもゼロではないようですが、少なくとも筆者が業界で見てきた範囲では、一度も経験したことがありません。レアケースと言ってよいはずです。
たいていの場合は、「どんなふうに終わらせると良いですかねえ」と、脚本会議に出席している全員が頭を悩ませることになります。この問題を解決するためには、やはりある程度は、原作にはないオリジナル要素を追加するしかないでしょう。
原作の表現自体が、そのまま映像にするには難しい場合もあります。例えば小説などで、登場人物のひとりが何十ページにもわたってセリフを語り続ける場面は、どのように脚本にすれば良いでしょうか? その場合の「原作通り」とは、語り手を画面に登場させて延々とセリフを喋らせることです。脚本会議では監督や原作サイドから、「そんなつまらない表現は止めてください」と、まず間違いなく言われるでしょう。少しでも面白くするためには、原作を改変することが必要になります。
最近では、『進撃の巨人』の脚本集なども、一般の書店に並んでいるようです。脚本は極めてシンプルな言葉で書かれるため、手に取って読まれた方のなかには、「えっ、こんな簡単なものを書くのに苦労してるの?」と、驚かれる方もいるかもしれません。
ですが、一見するとカンタンそうで実はムズカシイのが脚本というもの。「脚本には書き方もあれば読み方もある」と言われるのは、やさしく見える表現の奥に、実に奥深い要素がさまざまに含まれているからなのです。
書いている時は関係者の皆さんからあーだこーだ言われ、書き終えた=決定稿になった後は視聴者の皆さんからあーだこーだと言われるのが、脚本家という仕事の宿命です。実情を知っている身からすると気の毒にも思いますが、それでも宿命を引き受けて書き続けている脚本家の皆さんには、敬意を抱かずにはいられません。
(おふとん犬)