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『ドラクエ4コマ』三剣もとか先生インタビュー デビューから「引退宣言」までの思い

『ドラゴンクエスト 4コママンガ劇場』の読者投稿企画「ドラクエ4コマクラブ」に作品を投稿しデビューした、三剣もとか先生。人気絶頂のなか「引退宣言」をし、惜しまれながら表舞台を去りました。デビューから引退まで、当時の思い出を語ってもらいました。

人気絶頂のなか引退、思い出の1枚

3.11をきっかけに三剣もとか先生が描いたイラスト
3.11をきっかけに三剣もとか先生が描いたイラスト

「ドラゴンクエスト」シリーズの世界をギャグマンガにした『ドラゴンクエスト 4コママンガ劇場』(以下、ドラクエ4コマ)は、1990年に当時のエニックス社の出版部門から第1巻が発売されました。その後も高い人気を受けて続刊が発売。「月刊少年ガンガン」や「Gファンタジー」「月刊少年ギャグ王」といったマンガ雑誌が発行され、掲載作は一部で「ガンガン系」とも呼ばれて熱烈なファンを得ました。

『ドラクエ4コマ』は、すでに活躍しているプロの漫画家だけでなく、読者投稿の企画「ドラクエ4コマクラブ」から人気作家が生まれることにも特徴がありました。

 投稿を経て、プロ作家としてデビュー。端正でかわいらしい絵柄と笑いで高い人気を誇りながら、「引退宣言」で表舞台を去った三剣もとか先生に当時の思い出を語ってもらいました。

* * *

ーー『ドラクエ4コマ』を投稿し始めたきっかけはありましたか? 『ドラクエ4コマ』の前から、マンガを描かれていたのでしょうか。

 デビュー作の『ドラクエ4コマ』9巻の楽屋裏で少し描いてますが、「失業手当で買ったスーファミ本体」「姉から借りた『ドラクエV』のソフト」「当時読んでいた『月刊少年ガンガン』」がきっかけでした。

 高卒で就職した会社を体調不良で退職した後、新聞配達やスーパーのPOP描きなど複数の短時間バイトをしていてゲームする時間があったのと、「ガンガン」本誌で見かけた「ドラクエ4コマクラブ」がスライム賞で5000円、キングスライム賞で1万円という魅力的な募集をしていたので、おこずかい稼ぎにちょっと描いてみようかなと(笑)。

 あと元々マンガやイラストなど雑誌に投稿するのが趣味だったのであまり抵抗なく投稿してました。

 マンガ歴としては、3~4歳くらいから絵ばかり描いていて、コマ割りマンガらしきものを描いたのは小学3年生頃。中学で初めてアニメのパロディマンガのコピー本を作りました。高校でアニメ『聖闘士星矢』にハマり同人活動も始めていました。おかげでマンガの画材など先にそろっていましたが、マンガ描きとして色々と勉強になったのは圧倒的にデビューした後からの方が多いですね。

ーープロデビューした経緯を教えて下さい。どのように編集部から連絡が来ましたか?

 これも同じく9巻の楽屋裏で少しふれてますが、編集部から『ドラクエ4コマ』を描きませんかとお電話があったのは、「4コマクラブ」の投稿を始めて3か月目の頃でした。

 当時「月刊少年ギャグ王」の創刊準備中で作家さんを募っていらしたようで、私にも声掛けして下さったんですね。まだ投稿を始めて間もないのにお声が掛かったことにすごく驚きましたが、その場でお受けしました。でも実際にコミックスが発売されるまではずーーっと半信半疑でした(笑)。

ーー三剣先生といえば、ちょっぴり気の強い『ドラクエV』の王女のキャラクターが印象に強く残っています。ご自身にとって思い入れのあるキャラクターや、タイトルはありましたか?

 ありがとうございます(笑)。『ドラクエV』の公式ガイドブックを見ながら王女のイラストを模写練習していて、彼女の生い立ちや境遇などを考えながら描いてたら、自然とあの性格になっていました。ちょうど『家なき子』(1994年)というドラマが人気だった頃なので、ツンツンな子でも受け入れてもらえたのかなぁと思います。

 思い入れのあるタイトルはやはり『ドラクエV』ですね。主人公君は自分の分身なのでネタにしやすかったです。パパスもヘンリーもビアンカもフローラも子供達も大好きです。まだやってないのですが、『ドラクエXI』が気になってるのでいつかプレイしたいです。

ーー当時のネタ出しの苦しさは、多くの作家さんが「楽屋裏」で語っていらっしゃいます。三剣先生はいかがでしたか? 他にも辛い、または楽しかった思い出があれば教えて下さい。

 デビュー当時は『ドラクエV』が4コマネタとして解禁されて間もない頃でしたので、あらかじめたくさん描きためておいたストックがあり、当初はそんなにネタ出しに苦労してなかったような気がします。でもさすがに『V』ネタばかりではストックも尽きるので、姉から『ドラクエI・II』を借りてプレイしなおしたりしていました。

 うちの親はゲーム全般全否定派でしたので、それまでは親がいない時にコソコソとプレイしていました。でもデビュー後に「し、仕事だから……(汗)」とネタ出しのために親の前でゲームできたのは、後にも先にもこの頃だけだったと思います(笑)。

 それより、ネタが通ったあとの原稿を仕上げるのが遅くて締め切やぶりの常習犯だったので、当時の担当の飯田さんに毎回ご迷惑おかけして申し訳なかったです。

 電話で「飯田さん……いま私どのへんですか?」「えーと、うしろから2番目ですね」という謎の会話があったりもしました(滝汗)。

 原稿は実家の熊本の田舎で描いて東京へ送っていたので、時間がない時は地元の宅配業者の方にお願いして航空便で送ったりしていました。原稿の入った封筒を持ち込むと顔を見るなり「はい先生! 航空便ですねっ!?」と言われるくらいにはなってました……(汗)。

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