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《命日》任天堂の元社長・岩田聡、ゲーマーから愛された「プログラマー」としての顔

コンピュータゲームの歴史は、他のさまざまな文化と比べると、まだ歴史が浅い方かもしれません。ですが、その短い歩みのなかだけでも、すでに少なくない方々が名を残しながらこの世を去りました。岩田聡氏も、惜しまれつつ見送られたひとりです。

社長になっても持ち続けた開発者精神

2006年、新型ゲーム機発売を発表する岩田聡氏(写真:時事通信フォト)
2006年、新型ゲーム機発売を発表する岩田聡氏(写真:時事通信フォト)

 今から7年前の2015年7月11日に、当時任天堂の代表取締役社長を務めていた岩田聡氏が亡くなりました。かつて32歳という若さでハル研究所の社長に就任し、会社が抱えていた15億円の負債を6年で返済。また任天堂の社長時代には、「ニンテンドーDS/3DS」や「Wii」などでゲーム業界を大きく盛り上げ、確かな業績を積み上げました。

 「Wii U」の伸び悩みなどから数字的に厳しい局面もありましたが、2015年3月には任天堂IPを用いたスマートデバイス向けアプリの展開や、新たなゲームハード「Nintendo Switch」(当時の仮称はNX)の開発を明かすなど、状況を打破する新たな動きにも意欲的に取り組んでいました。こうした挑戦が大きな成功と業績の回復に繋がったことは、後の結果を見ても明らかです。

 しかし、2015年に発表した展開の成果を見届けることなく、今からちょうど7年前に岩田氏は死去。ゲーム業界に偉大な功績を残した人物の訃報を前に、ゲームを愛する多くの方々が力なくうなだれました。

 ハル研究所の再建に尽力し、任天堂を13年も背負い続けた岩田氏。こうした活躍が今も語り継がれているため、社長としてのイメージが色濃い方も多いことでしょう。ですが岩田氏はプログラマーとしての手腕も大変優れており、また開発者精神は社長になった後も根強く持ち続けていました。

「──名刺のうえでは、わたしは社長です。
 頭のなかでは、わたしはゲーム開発者」

 自身について、そんな言葉も残している岩田氏。そこで今回は、社長ではなく名プログラマー・岩田聡の逸話をふたつほど紹介したいと思います。

●難産だった『MOTHER2』の境地を助けた救世主

 名作RPGは数あれど、独特な世界観を徹底して作り上げ、似ているゲームが全くといっていいほどないRPGといえば、「MOTHER」シリーズを連想する方が多いはず。シリーズ名にもなった記念すべき1作目『MOTHER』が1989年に登場すると、その替えの利かない強烈なゲーム体験から、続編を求める声が早くから挙がりました。

 2作目に当たる『MOTHER2 ギーグの逆襲』が発売されたのは、約5年後の1994年。続編のリリースまで間が空くケースは決して珍しくありませんが、『MOTHER2』の場合は開発の難航がその大きな原因でした。そして、このピンチを救ったのが岩田氏です。

 すでに4年ほどの期間が『MOTHER2』の開発に当てられていましたが、それでもまだ完成のめどが立っていない状態でした。こうした状況を打破する助っ人として呼ばれた岩田氏は、最初に大胆な提案を行います。

 「いまあるものを活かしながら手直ししていく方法だと2年かかります。いちからつくり直していいのではあれば、半年でやります」

 期間的にも、またおそらく作業量の面でも、後者の方が負担は少ないはず。プロジェクトの立て直しを担う岩田氏の立場であれば、選択肢を与えず後者のみを提示する手もあったことでしょう。

 しかし岩田氏は、いきなり現れた人間が「いちからつくり直します」と宣言した結果、納得しない人が出る可能性を危惧。「現場の雰囲気が壊れてしまったら、うまくいくものもダメになってしまう」といった危険を避けるべく、方向性についての決断を任せたのです。

 この提案の結果、いちからつくり直す方が選ばれ、半年ほどでゲーム全体がひと通り遊べる形になりました。そこからさらにブラッシュアップが行われ、その半年後──岩田氏が参加してから1年ほどで、無事発売を迎えます。

 難航していたゲーム開発を宣言どおり半年でつくり直した手腕は、見事のひと言です。また、論理や作業効率だけに縛られない視野の広さもまた、名プログラマーたるゆえんと言えるでしょう。

 ちなみに岩田氏は、提示した選択肢について「わたしはどちらの選択肢でもやるつもりでいましたし、実際、どちらの方法でも仕上げられたと思います」とも語っています。選択肢は委ね、しかしその結果は引き受ける。こうした姿勢にも、頭が下がるばかりです。

【画像】名作ばかり! 岩田聡氏が携わったゲームたち(6枚)

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