「ゴジラ」とも戦った幻の戦闘機「震電」は実際どのくらいやべーヤツだったのか?
旧日本海軍の戦闘機「震電」は、その特徴的なデザインや史実で実戦投入されていないことなどから、フィクション作品に「最強戦闘機」「決戦兵器」などとしてしばしば登場してきました。実際、どのくらいのものだったのでしょうか。
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映画『ゴジラ-1.0』に登場した試作戦闘機「震電」は、数ある航空機のなかでも特異な存在です。現実世界では戦果を挙げるどころか、本格的な実戦投入にすら至らなかったにもかかわらず、創作の世界では決戦兵器としてたびたび脚光を浴びます。その理由はどこにあるのでしょうか。そして、もし実戦投入されていたならばどの程度、期待できたのでしょうか。
J7W1「震電」は、第二次世界大戦末期に大日本帝国海軍と九州飛行機が試作した局地戦闘機です。特徴的なのはその極めて独特な設計思想で、当時の一般的な戦闘機が機首にプロペラを装備するのに対し、震電は胴体後部に推進式のプロペラを持ち、前方には小型の前翼を配置するという、いわゆる「先尾翼(カナードまたはエンテ)」形式を採用していました。
この設計には、主に高火力を実現する狙いがありました。当たりどころによっては大型爆撃機も一発で致命傷となりうる30mm機関砲を機首に集中し4門、搭載することで、射撃時の視認性と集弾性を向上させられたのです。
震電は1945年8月3日に初飛行を行いました。15日の終戦までに試験飛行は計3回実施されたものの、いずれもギア(降着装置)を格納せず、低高度でのテストで、最高速度も293.5km/hに留まっています。また試験飛行中には軽微な事故も発生し、設計上の問題が完全には解決されることなく終戦を迎えました。そのため、震電が本格的な実戦配備に至ることはなかったのです。
では、仮に震電が試験を順調にクリアし、実戦に投入されていたとしたらどうなっていたでしょうか。試作段階でしかなかった震電を量産のために生産ラインを確立するとなると、かなり時間がかかったでしょう。さらに、エンジンの供給や熟練工の不足も問題となり、実用段階に達するにはどんなに早くても1946年から1947年になったと考えられます。戦争が長引くほど日本は不利になり、一方連合国軍は増強され、ジェット機も投入されることになりますから、奮戦する余地はなかったに違いありません。
現実には運用される機会を得られなかった震電は、しかし、創作の世界では決戦兵器としてしばしば登場します。映画『ゴジラ-1.0』では、ゴジラに立ち向かう日本の最後の希望として描かれました。そのほかのフィクション作品でも、しばしば「幻の戦闘機」「もしも実戦に投入されていたら?」というロマンを背負い、強力な戦闘機として描かれます。
こうした「震電」人気の理由のひとつは「未知数」という点にあるからではないでしょうか。試験飛行わずか3回という少なさは、性能評価が定まらないことを意味し、それゆえに「本気を出せばすごかったかもしれない」という想像の余地を残しています。加えて、独特のフォルムや未来的な設計も、戦後の創作世界において強く印象付けられる要因となったと考えられるでしょう。
震電は、現実には戦局を覆すような戦果を挙げることは見込めなかったでしょうが、その「幻の存在」としての魅力が、創作の世界での人気を支えているといえます。戦史においては未完の試作機に過ぎないものの、フィクションのなかでは今後も、「もしも」の可能性を宿した伝説の戦闘機として輝き続けることでしょう。
(関賢太郎)