『聲の形』は不快になるのが前提の映画? 拒否反応が出た理由と作中の回答とは
「変わらなくてもいい」というメッセージ

●物事や人は一面的ではない
この『聲の形』の物語は、「人や物事は一面的ではない」ということも伝えていると思います。表面的に見て「なんだよこいつ」「気持ち悪い」と思ってしまったとしても、「それだけではない」別の視点や、大局的な見方は必要だと思うのです。
それは将也や硝子だけでなく、「川井みき」という女の子にも当てはまります。彼女は将也がひどいことを黒板に書く様子を見ても「やめときなよ」と少し笑みを浮かべながらも結局は止めなかったり、メガネをわざわざ外してから「私、そんなこと(いじめ)しないよ。石田くん、ひどいよ」と言いながら涙を見せたりしており、「偽善者」「クズ」だと感じる方もいたようです。しかし、大今さんはファンブックにて、このメガネを外す行動は「ナチュラルであり、流した涙も純度100%である」と明言していますし、確かに彼女は自身の善意に従っているとも思えます。
その川井の行動に不快感を持ってしまうのはまだ仕方ないとしても、彼女への勝手かつ短絡的な見方、ましてや過剰な糾弾は、それこそ(劇中で将也が新たないじめの標的になったように)また新たないじめの構図につながりかねないと、危機感を覚えるところもありました。
地上波放送のたびに、X(旧Twitter)で「#川井を許すな」というタグで彼女を糾弾する声が続出することには(もちろん正当な意見もあるとはいえ)、本作がフィクションであることを踏まえても恐怖を感じます。その川井が、最後に将也に(全部は集まらなくても)千羽鶴を渡そうとする善意を見せたことなどにも、目を向けてほしいです。
●「変わらなくてもいい」ことも示している
そして、この映画『聲の形』の物語は「変わらなくてもいい」ことと、「変わろうとする意思(意志)」の両方を肯定しているともいえます。
たとえば、植野は物語の最後にも「うーわ、友達ごっこかよ?キモッ」とやはり悪態をつきつつ、相変わらず謝っている硝子に「まあ、それがあんたか」と言い、さらに手話を交えながら「バーカ」と言います。この時に硝子は心からの笑顔を浮かべ、間違って「ハカ」になっていた手話を、「バカ」に直してあげているのです。
「友達ごっこ」をしているふたりを受け入れられないのは変わらない、でも硝子が謝まることはもう許容するし、それでいて手話で会話をしようとする。そのコミュニケーションの変化も、また尊いものだと思います。
●悩みなんて大したことじゃない
さらに、「死にたいと思うほどのコミュニケーションにおける悩みなんて、実は大したものじゃないかもしれないし、それは何かの積み重ねや、誰かの言葉で解決できることもある」、ということも学べます。橋の上でひどいことを言った石田将也に対して、「永束友宏」は「あんなこと、生きてりゃ何度でもあるさ!」と言ってくれましたし、植野もまた謝る硝子に対して「そんな深刻な話してねーよ」と告げていました。
そして、将也が勝手に人につけていた「バッテン」が取れたそのときに、彼の視界は広がり、みんなの笑顔も思い浮かびます。周りから見たら「大したことじゃない」としても、そのことにやっと気付いて、世界が変わる様はこれほどまでに感動的であり、それはさまざまな悩みを持っている人への福音になり得るのです。
映画の脚本を手がけた吉田玲子さんも、「許しがたいことはたくさんある。でも、観終わった方が、自分で自分のダメなところを、他人の嫌な部分を、少しでも許せるようになって、少し好きになってもらえたらなぁと思っています」と語っています。そのように、自分や他人を許し、好きになることで、世界はより良く見える……それもまた、現実にある希望でしょう。
それでも、この『聲の形』の物語を許せないという声もまた尊重するべきだと思いますし、そのままでいいと思います。
その気持ちが変わらないのであれば、別の物語に触れてみるのもいいでしょう。たとえば、辻村深月さんによる小説を原作としたアニメ映画『かがみの孤城』は悪意をもっていじめをしてきた相手と和解なんてしない、その安易な解決を選ばないことに、作り手の尊い意志を感じることができました。こちらの物語もまた、必要な人に届くことを願っています。
(ヒナタカ)