今の子たちには伝わらない『稲中顔』とは? 掘り下げると「美人」を指す言葉になった可能性
『行け!稲中卓球部』に登場しそうな顔を指す「稲中顔」という言葉がありました。単なるブサイクとは違う、あの妙に哀愁漂う表情。令和の今、改めてその正体を探ります。
「稲中顔」に感じたあの哀愁の正体とはいったい何だったのか?
今の30代後半~40代の方は「稲中顔」となんて人から言われると少なからぬ怒りを覚えることでしょう。「稲中顔」とはその名の通り、ギャグマンガ『行け!稲中卓球部』(著:古谷実)に登場しそうな顔という意味であり、間違っても容姿端麗を意味する言葉ではありません。
……とはいえ「稲中顔」は一概に「ブサイク」全般を指す語でないものまた事実です。不器量ながら、何とも言えぬ哀愁を感じさせるものであり、1996年の連載以来、約四半世紀が経過した今、この絶妙なニュアンスはなかなか伝わらぬものになっていきます。(そもそも伝える必要などないという指摘は、全くもって正しいです)。
とはいえ、古谷実が発明したあの素晴らしき顔たち。一時期は盛んに俳優さんやお笑いタレントさんがモノマネしていましたが、ぜひその魅力を令和以降の世代とも分かち合いたいところ。改めて「稲中顔」とはいかなる顔だったのか、ここでおさらいしてみましょう。
「稲中顔」と簡単に言えど『稲中』は連載中に作者・古谷実の作画能力が劇的に向上するため、初期と後期では絵柄に大きな差が生まれます。想定する顔も人によって異なるかもしれません。
主人公・前野を例にしても初期と後期では髪型以外、まるで別人。そのなかで、「つり上がった目」と「目から離れた眉」「巨大な鼻の穴」「分厚い唇」の要素だけは全巻共通しているようなので、どうやらこれが「稲中顔」の基本要素のようです。それに続いて「浮き出た頬骨」「おでこニョーン」などの要素が追加されていきます。
整理してみると、なるほど「稲中顔」の象徴として読者に衝撃を与えた「田原俊彦」(4巻初登場の1年生)は、これらの要素のみで構成された「完成品」といえそうです。
少し、視点を変えます。全くの私見ながら「稲中顔」の基本要素は「鼻」以外、喜多川歌麿に代表される江戸時代の「美人画」にも通じるところがあるように思えてなりません。実際、歌麿の代表作「ポッピンを吹く女」は鼻筋を少しおおってみると、初期の前野の雰囲気をにわかに帯び始めます。
さらに時代はさかのぼり、室町時代。私たちが「能面」と聞いて思い浮かべるであろう「増女」の表情も思えば「つり上がった目」と「目から離れた眉」(無論、「増女」の眉はおでこに描いたもの)、「巨大な鼻の穴」あたりに共通点が見受けられます。今でこそ「能面」と書いて「トラウマ」と呼び得るような恐怖の対象となっているようですが、能面「増女」は本来、天女や精霊などの役柄に用いられ、神々しい美しさを表現するものだったのです。自分たちを含めた「ブサイク」に極めて厳しかった前野や井沢たちが「美」の要素を持っていたかもしれないことは恐ろしい業を感じます。
この共通点をもって考えると、「稲中顔」から感じる「何とも言えぬ哀愁」にも納得がいきます。「美人画」も「能面(増女)」も基本的には無表情。こと「能面」においてはその役割が強いのですが、彼らの感情は受け手が作り出すものです。とすると、前野たちの哀愁は描かれていたというよりも、彼らの置かれた状況から私たちが生み出していたのかもしれません。
11巻収録の「トゥルース」では「美人」と「不美人」が逆転している怪しい集団のなかに前野と井沢が迷い込みますが、時代が違えば実際にそうだったかもしれない……やはり「哀愁」を感じざるを得ません。
(片野)