「こんな母ちゃんはイヤだ!」宇宙世紀史上最悪といわれるアムロの母親は本当に毒親か
『機動戦士ガンダム』の主人公、アムロ・レイといえば、家庭環境に恵まれなかったという見方が広くなされてきたといえるでしょう。母親にいたっては毒親などと揶揄されてもいます。果たして本当にそうなのか、改めて振り返ってみました。
非難に見合うだけの材料アリ…?

1979年にTV放送されたシリーズ1作目『機動戦士ガンダム』には、主人公である「アムロ・レイ」の両親が登場し、家庭環境の複雑さが描かれました。特に母親の「カマリア・レイ」は、ファンのあいだで「毒親(子どもにとって毒になるような悪影響を及ぼす親のこと)」などと揶揄され続けています。
カマリアの登場は第13話「再会、母よ…」です。アムロは久しぶりに地球で暮らす母親と再会しますが、ジオンの偵察隊が登場して事態は一変します。アムロはベッドの布団に身を隠してその場をやり過ごそうとしたものの追求は厳しく、堪らずジオン兵に向かって発砲しました。
その一部始終を見ていた母のカマリアは、アムロに「あの人たちだって子供もあるだろうに。それを、鉄砲を向けて撃つなんて……荒んだねぇ」と言い放ちます。戦争中であり、やむをえないというアムロの声にも耳を貸そうとしません。アムロは「僕を……愛してないの?」とうつむきながら問いかけ、カマリアは「子どもを愛さない母親がいるものかい」と返すものの、アムロはカマリアの元から去りました。そして残されたカマリアは「男手で育てたからかしら。あんな子じゃなかったのに」とひとりごちるのです。
次々とアムロを否定するセリフが飛び出すこのシーンに、ネット上では「(カマリアは)現実が見えていない」「(カマリアの)圧倒的な無理解」などの感想が見られます。
一方で、カマリアはあくまで民間の一般市民です。ここまでアムロの物語を追いかけてきた視聴者としては、カマリアの言いざまにズレや無理解を感じるのは仕方のないことかもしれませんが、戦場の現場を知らない民間の一般市民にしてみれば、「人に銃を向ける(=人を殺す)」という行為は、常識的に許されるものではありません。加えて、アムロはガンダムパイロットとはいえ、まだ15歳の子どもでもあります。子どもに対し常識を説くのは、親として当たり前のことでありましょう。「大人になってから見返すと、アムロの母ちゃんがああ言っちゃうのもわからなくはない」といった感想も聞かれます。「無理解」と切り捨てるのは、むしろ親心というものへの無理解からくる子どもの見方かもしれません。
ただ、それでもカマリアを擁護しきれない材料はあります。続く第13話終盤の、ホワイトベースに戻るアムロをカマリアが見送るシーンにて、カマリアを乗せてきたと見られるクルマにひとりの男性が描かれていました。こちらは、富野由悠季監督が自ら執筆した小説版を勘案すると「カマリアの愛人」と見られる男性です。その小説版では、アムロがまだ幼い頃からカマリアには愛人がいた、とも記されています
小説版を基に考えれば、カマリアが地球に残り別居に至ったのはつまり、夫や息子ではなく愛人を選んだから、という見方ができてしまいます。たとえそうだったとしても、それはそれとして、一方で親としての愛情を持ち、人としての常識を説くことはありえるでしょう。とはいえ、その言葉がずいぶんと薄っぺらく感じられるようになってしまうのは、否めないかも知れません。
なお、カマリアが愛人を持つに至った経緯については、小説版でも定かではありません。加えて、TVアニメ本編の中でクルマの男を愛人とする表現はないことにも留意する必要があるでしょう。
第13話の最後、アムロはずいぶんと固い言葉で、カマリアに別れを告げます。母親とは相容れない生き方を選んだがゆえであり、それは自立ということでもあるでしょう。カマリアが泣き崩れるのは、子どもから自分の生き方、考え方に「否」を突きつけられたがため、といえそうですが、同時に、それでもやはり、子を思い別れを惜しむ気持ちも大いにあふれた、と見たいところではあります。「子どもを愛さない母親がいるものかい」という言葉に、きっとウソはなかったと。
(LUIS FIELD)