『あんぱん』では描かれる? 終戦から帰国まで時間があったやなせ先生、中国でも「マルチすぎる」活躍をしてた
朝ドラ『あんぱん』では、太平洋戦争末期の物語が描かれています。モデルとなったやなせたかし先生は、そのさらに後の1945年後半、中国で意外なほど文化的な日々を送っていたそうです。
すでに作詞もしていた

2025年前期の連続TV小説『あんぱん』第12週目では、『アンパンマン』の作者、やなせたかし先生がモデルの「柳井嵩(演:北村匠海)」の、戦時中の壮絶な日々が描かれました。そして、6月20日放送の60話では、1945年(昭和20年)8月15日の玉音放送の場面も描かれ、日本は敗戦を迎えます。
戦時中、厳しい飢えは経験したものの、敵に銃を撃つこともなく戦争が終わったやなせ先生は、当時「ほっとした」ことを振り返っていました。ただ、玉音放送のあと、やなせ先生が滞在していた上海郊外の泗渓鎮から日本へ戻ったのは1946年1月のことです。終戦後の数か月、やなせ先生たちは意外なほど「文化的な生活」をしていました。
やなせ先生の著書『アンパンマンの遺書』(1995年刊)や『ぼくは戦争は大きらい ~やなせたかしの平和への思い~』(2013年刊)によると、大隊長に日本が負けたことを告げられたその日から、隊内の雰囲気は一気に変わったそうです。武闘派の将校たちは意気消沈して影が薄くなり、「文化的な兵隊」が活躍し出しました。隊には3年分の籠城を見越した食料があったため、食べるには困らなかったそうです。
やなせ先生のいた小倉連隊には、もともと映画監督、カメラマン、小説家、編集者、役者、画家だった人間もおり、美大出身で戦前はデザイナーをしていたやなせ先生も、彼らとリーダシープを握りさまざまな「文化活動」をします。壁新聞を作ったり、演劇の脚本と演出も担当しました。
また、階級が上の将校たちが軍曹のやなせ先生のところに「国に帰ってどう生きていけばいいのか」と、相談しに来るようにもなったそうです。士官学校で習ったことが無駄になってしまったことで、文化系で手に職があるやなせ先生が頼りに見えたのでしょう。なかには「絵を習いたい」という将校もいました。
それから次第に中隊単位で絵画のクラブや俳句、短歌の会もできていったそうで、かなり文化的なコミュニティが生まれていたようです。いちばん盛んだったのは演劇のサークルで、意外に芸達者な兵も多く、コンクールまで開かれました。
やなせ先生は大体本部の下士官だけを集め、脚本、演出、主題歌の作詞(作曲はハーモニカの得意な兵が担当したとのこと)まで担当して、「復員兵」がテーマの「嗚呼(ああ)、故郷」という芝居を作ります。ある日本兵が故郷に戻ると、アメリカ軍の占領下で仕事がない男たちが男娼になっているという内容でした。
やなせ先生いわく「エキゾチックな顔」の九州男児の兵にGI帽を被せるとアメリカ兵そのものに見えたそうで、さらにいちばんいかつい「鬼みたい」な見た目の軍曹を、主人公の妻役の「女形」に起用したところ、これが大うけしたといいます。本人もしなを作るなど、ノリノリで演じたようでした。
そのほか、やなせ先生は内容を覚えていないというものの、歌もたくさん作って隊内で流行ったそうです。日本に帰る際には「歌詞を書いて渡してくれ」と頼んでくる兵士が、何人もいたとのことでした。
こういった中国での日々は、のちに漫画家、絵本作家以外に作詞家、舞台演出家、舞台美術家、シナリオライターなどさまざまな顔を持ち、本人歌唱のCDも出したやなせ先生の活躍とも重なります。
本人も「今ぼくは、マンガを描き、詩を書き、歌も歌う、というのが仕事になっていますが、実は兵隊の頃、すでにほとんど同じようなことをしていたわけです。もともとそういうことが好きだったんですね」(『ぼくは戦争は大きらい ~やなせたかしの平和への思い~』より)と語っていました。
『あんぱん』では戦争編で辛い場面が続きましたが、戦後間もなくのこういった「楽しい日々」は描かれるのか、要注目です。
参考書籍:『ぼくは戦争は大きらい ~やなせたかしの平和への思い~』(小学館 著:やなせたかし)、『アンパンマンの遺書』(岩波書店 著:やなせたかし)
(マグミクス編集部)

