『ONE PIECE』作者が修行していた、マンガの先輩たち。天才たちの青春群像も
『ONE PIECE』の作者・尾田栄一郎先生は最初の連載作品で大ヒットを飛ばしていますが、だからといって「下積み」がなかったわけではありません。むしろ下積みがあったからこそ『ONE PIECE』は生まれました。そんな尾田先生の青年時代を紐解きます。
師匠とライバルたちとの青春グラフィティ
どんな大御所マンガ家も新人時代があり下積み経験があります。それは世界的な人気マンガ『ONE PIECE』の作者・尾田栄一郎先生であろうと例外ではありません。
かれこれ10年以上、新刊コミックが出ればその初版は300万部以上。世界累計発行部数は4億8000万を突破し、Netflixでの実写化も決定。まさに地球規模の熱狂を生み出し続ける尾田栄一郎さんもまた、新人時代は売れっ子マンガ家のもとでアシスタント経験し、同じ志を持った仲間たちと切磋琢磨する日々を送っていました。
今回は意外と知られていない、尾田栄一郎先生のアシスタント時代の師匠、仲間たちとのエピソード、さらにアシスタント時代に描いたコマなどを振り返りながら、『ONE PIECE』誕生の背景にある物語を読み解きます。
●師匠に恵まれたアシスタント時代
大学中退後、上京した尾田青年はまず『LIAR GAME』などのヒット作で知られる甲斐谷忍先生のアシスタントにつきます。そこでは背景を担当することに。1か月ほどのわずかな期間ながら「描き込みの楽しさ」を覚えたといいます。また甲斐谷先生からも「教えない方が上手くなる」と、その才能を見込まれるほどでした。
そして次は『新ジャングルの王者ターちゃん』の連載で多忙を極めていた徳弘正也先生のアシスタントとして働きますが、ここでも『ONE PIECE』の礎となる薫陶を受けることとなります。
甲斐谷先生のところで「描き込み」の楽しさを知った尾田青年は、徳弘先生の依頼で、大勢の人物がいるシーン(281話)を担当します。嬉々として取り組みましたが、いざ完成した絵を見てみると「人物をシルエットで描きわけられてない」ことに愕然。徳弘先生の作品に申し訳ないことをしたと猛省することになります。
『ONE PIECE』キャラクターの独特のシルエット造形、背景の描き込みぶりはこの時の経験が活かされているのです。
●仲間にも巡り会う…伝説の「和月組」!
徳弘先生の次は『るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-』を連載中だった和月伸宏先生のもとへ向かいます。この時、すでに『ONE PIECE』の連載開始間近ということで仕事ぶりも上々。そんななか、尾田青年は後に「和月組」と言われる『シャーマンキング』の武井宏之先生、『ノルマンディーひみつ倶楽部』のいとうみきお先生、『Mr.FULLSWING』の鈴木信也先生、『グラン・バガン』の山田和重先生、そして『鬼が来たりて』で知られるしんがぎん先生といった仲間たちと出会います。『るろ剣』は、今思えばとんでもない才能が集結して作られていたのです。
彼らを仕切っていた和月先生曰く、彼らの共通点は「放っておいても絵を描いている」という点。そしてもうひとつは「自分のマンガが一番面白い」と譲らないところだったとか。この時のマンガ青年たちの様子は、いとうみきお先生が『月曜日のライバル』という自伝的マンガで詳しく描いています。
●連載第1話から助っ人を担当した「がぎん兄さん」との別れ
「才能」だけでなく、それを引き出してくれる師匠・ライバルにも恵まれた青年時代を送った尾田先生でしたが、なかでも『鬼が来たりて』などの作品で知られるしんがぎん先生のことは“がぎん兄さん”と慕っていました。助っ人として作品を手伝うこともあり、『鬼が来たりて』のコミックスの1巻の16ページには尾田先生が描いたモブキャラが確認できます。
しかし、しんがぎん先生ですが、2002年に29歳という若さで急逝。多くのマンガ家が追悼するなか、尾田先生もまた『ONE PIECE』233話の扉絵を黒く縁取り、哀悼の意を表しました。
今や「ひとりの作者が描いたコミック最多」のギネス記録を持つ尾田栄一郎先生もまた、良き師、友との出会い、そして別れを経験しています。「意外と普通の青年だったんだ」という結論に至るのは早計で、時には破天荒な一面も見せる尾田先生ですが、ジャンプの三原則「友情・努力・勝利」を自ら体現した「少年ジャンプの申し子」であることは間違いないでしょう。
(片野)