「刀鍛冶の里」からも見える、鬼殺隊と鬼の「4つの差」を考える 今後起こる変化とは?
人間をナメてるから!? 鬼殺隊と無惨の「差」が生まれる理由は?

●志の「差」
すべての鬼を倒して平和な世の中をつくることが鬼殺隊の目的であり、そのためには命を投げ出す覚悟も鬼殺隊の人びとにはあります。それは柱も当主も同じです。志を同じくする者の集まりだからこそ強い絆で結ばれています。
一方、鬼の目的は無惨が日光を克服し不老不死の完全体になることで、とても個人的な欲望といえます。無惨が鬼をつくり続けているのは、もし太陽を克服する鬼が生まれれば、それを取り込もうと思っているからでしょうし、そのような能力がなくても青い彼岸花を探す人員確保のためなのでしょう。だから部下に対して真の意味での愛情はないし、集団としての志と呼べるものもありません。熾烈な戦いのなかで、最後のあと一歩が踏ん張れるのは、この志の「差」ではないかと思います。
●計画性の「差」
産屋敷家の邸宅は鬼側に知られない場所に秘匿されていますし、刀鍛冶の里もまた隠の案内なしではけっしてたどり着けないよう秘匿されています。隊士たちは修練を重ね、刀鍛冶たちは技術を子や孫に伝え、いつか来る決戦の日のために緊張感をもって準備をしていたのでしょう。この緻密な長期計画が無惨には欠けているものです。
たとえば医師や薬師を狙って鬼化させる、あるいは鬼化させないにしても協力させて不死の薬を作らせたりすることは可能でしょうし、柱をおびき出して上弦の鬼を当て、ひとりずつ倒していって鬼殺隊を丸裸にした後に自分が活動しやすいように鬼殺隊をせん滅するなど、いくらでもやりようはあったはずです。人間を圧倒する鬼の能力への自信が計画性を奪ったのかもしれません。
だから、浅草で炭治郎たちを中途半端な力の鬼(朱紗丸、矢琶羽)に襲わせて返り討ちにあったり、怒りにまかせて下弦の鬼たちを「パワハラ会議」で殺して自ら戦力ダウンしたりしたのでしょう。この計画性のなさが鬼殺隊と無惨の「差」であり、「遊郭編」の最後に、血を吐きながら耀哉が「これは“兆し”だ。運命が大きく変わり始める」と言ったように、今後、「刀鍛冶の里編」からどんな変化が起こっていくか楽しみなところです。
※禰豆子の「禰」は「ネ」+「爾」が正しい表記
※煉獄の「煉」は「火+東」が正しい表記
(山田晃子)