『もののけ姫』エボシ御前とサンの「正義」はなぜ両立できない? 現代に通じる問い
『もののけ姫』のエボシ御前は、単純な「悪役」ではありません。彼女とサンが体現する「ふたつの正義」の対立こそが、この物語の核心といえるでしょう。なぜ共存できなかったのでしょうか。
エボシ御前もサンも必死に「生きている」

スタジオジブリの名作『もののけ姫』が公開から四半世紀以上経った今でも多くの人に愛され続けている理由のひとつに、登場人物たちの複雑な人物造形があげられるかもしれません。
なかでも「タタラ場」の指導者「エボシ御前」は、一見すると森を破壊し神々をも恐れぬ「悪役」のように思えますが、作品を観た人なら、おそらく彼女を悪と断じることはないでしょう。彼女もまた、譲れない信念を持つひとりの人間だからです。
エボシ御前が信じる「正義」とは何でしょうか。それは社会の底辺で苦しむ人々への救済でした。人買いに売られた女たちを買い戻し、世間から忌み嫌われる「病者」たちを迎え入れ、彼女の「タタラ場」では生まれや体の状態に関係なく、すべての人が対等に働き、誇りを持って暮らすことができました。
このタタラ場こそが、エボシ御前にとっての「守るべき世界」だったのです。そこは弱い立場の人々が安心して暮らせる、かけがえのない場所でした。彼女の「正義」は、この共同体を繁栄させ、より多くの人を救うことにあったといえるでしょう。背景には彼女の、壮絶な過去があるといわれます。
一方、もうひとつの「正義」も存在していました。人間に捨てられ、山犬に育てられた娘「サン」のそれです。彼女が心の底から愛するのは、太古から続く深い森の世界でした。そこには神々が息づき、無数の生き物たちが調和を保ちながら命を紡いでいたのです。
サンの「正義」は、この神聖な森を人間の手から守り抜くことでした。木々を切り倒し、動物たちを殺し、神聖な領域を侵す人間たち、彼らを憎むのは、森で生きる者として当然の感情だったのでしょう。
ここで悲劇が生まれます。エボシ御前たちが豊かに暮らしていくためには鉄が必要で、鉄を生産するには、大量の木材を燃やさねばなりません。人間たちの暮らしが豊かになるほど、森の緑は失われていきます。つまり、一方の「正義」が実現されれば、もう一方の「正義」は必然的に破綻してしまうのです。
この構図は、まさに現代社会が直面する問題そのものかもしれません。私たちの便利で快適な生活は、地球環境への負荷と引き換えに成り立っているからです。
物語の主人公「アシタカ」は、「曇りなき眼(まなこ)」でこの対立を見つめ、エボシ御前の人間愛を理解し、同時にサンの森への深い想いにも共感しました。だからこそ彼は、共存する道はないのかと問い続けます。しかし両者の衝突は避けられませんでした。
クライマックスでは、人間同士の争いにシシ神の怒りも重なり、タタラ場は壊滅してしまいます。エボシ御前も大きな代償を払うことになりました。それでも彼女は言うのです。「みんな初めからやり直しだ。ここをいい村にしよう」と。
この言葉は、破壊の後に本当の調和を築こうとする決意なのか、それとも同じことの繰り返しなのか、これまでさまざまに解釈されてきました。どう受け取るか、それこそが、この『もののけ姫』という物語が我々に問いかけるもの、といえるかもしれません。
(マグミクス編集部)
