歴史は変わる!? 『ベルサイユのばら』にある「リアル」と「フィクション」
おさわがせ王妃!? マリー・アントワネットの無駄遣いが国を亡ぼす?
●マリー・アントワネットは散財したが、フランスの財政悪化は彼女のせいではない
『ベルサイユのばら』では、王太子ルイ・ジョゼフ王子が亡くなった際に、葬式台にも困り、ルイ16世が「宮殿にある銀の食器や燭台を売り払って」と、お金の工面を命じるほどフランスの財政は困窮していました。この事態にマリー・アントワネットは、「ベルタン嬢のドレスやポリニャック伯夫人や小トリアノンや…」「舞踏会やオペラやダイヤモンドのアクセサリー」「競馬や賭博……」と自分の無駄遣いを思い出し、「これはいままでのぜいたくの報いだというの…!?」と青ざめるのでした。
マリー・アントワネットは、「赤字夫人」とやゆされるほど散財したのは事実です。しかし、それが国を崩壊させるほどだったかと言えば、実はそんなことはなく、大きな負担となったのは莫大な軍事費でした。
フランスでは、ルイ14世、ルイ15世の時代から、対外戦争費による負債が膨らんでおり、ルイ16世が即位した時にはすでに慢性的な財政難にあったのです。そして、積年の敵国であるイギリスの勢力拡大に対抗して、アメリカ独立戦争にかかわってアメリカに軍事支援や海軍力強化のための新軍港を建設などで軍事費が膨大にかかったのが財政困窮の原因でした。
マリー・アントワネットは、浅はかで贅沢好き、楽しいことだけを追い求める性格だったので、民衆の不平不満のはけ口にされたというところもありそうです。はじめはその美しさやファッションが良くとらえられても、民衆の生活が苦しくなると、そのいら立ちの矛先がマリー・アントワネットに向いてしまったというところもあるのでしょう。
●マリー・アントワネットの宿敵、デュ・バリー伯夫人は悪い人ではなかった
フランスに嫁いだマリー・アントワネットは、国王ルイ15世の公妾であったデュ・バリー伯夫人と対立します。娼婦や愛妾を嫌っていたマリー・アントワネットは、デュ・バリー伯夫人が娼婦出身であることに対しても嫌悪感を抱き、彼女を徹底的に無視し、声をかけようとしませんでした。この問題がこじれにこじれ、フランスとオーストリアの同盟をもおびやかす大問題にまで発展。ついにマリー・アントワネットが折れ、「きょうは、ベルサイユはたいへんな人ですこと」とデュ・バリー伯夫人に声をかけたのでした。
『ベルサイユのばら』では、マリー・アントワネットはデュ・バリー伯夫人を初めて見た時に、「なんて高慢ちきな態度でくじゃくみたいにあつかましそうに」「すごい肉体美だけれど、下品な女!」という印象を抱き、彼女が誰かと聞かれたオスカルも「王太子妃陛下がお心をとめられるような女ではございません」と答えるほどで、宮廷内で嫌われていたように描かれています。また、デュ・バリー伯夫人のマリー・アントワネットに対する態度も不遜なため、「いじわるキャラ」だと思っている方は多いと思います。
しかし実際のデュ・バリー伯夫人はというと、愛嬌があって親しみやすい性格で、天真爛漫な明るい女性だったようです。娼婦だったとはいえ、修道院にいたこともある彼女は教養もありましたし、美意識が非常に高く、芸術家たちの擁護もしていたと言われています。
しかし、1774年4月にルイ15世が天然痘で亡くなると、デュ・バリー伯夫人は、ポント・ダム修道院に追放されてしまいます。デュ・バリー伯夫人の公妾としての宮廷生活は、ほんの5年間ほどで、追放された時には、まだ31歳でした。
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日本でも、「1192(いいくに)つくろう鎌倉幕府」が今や使えず、中学歴史教科書の多くでは、鎌倉幕府の成立が、1185年に変わりました。このように、フランス革命や歴史上の人物の解釈についても時代とともに変わっているのですね。
(山田晃子)