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『宇宙戦艦ヤマト』を成功させた豪腕プロデューサーの伝説。デスラー総統そっくり?

難しい案件も動かした、独自の交渉術

『宇宙戦艦ヤマト』を成功に導いた西崎義展氏は、シリーズの人気キャラ「デスラー総統」を彷彿? 画像は「小説 宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち (3)」(KADOKAWA)
『宇宙戦艦ヤマト』を成功に導いた西崎義展氏は、シリーズの人気キャラ「デスラー総統」を彷彿? 画像は「小説 宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち (3)」(KADOKAWA)

 西崎プロデューサーは、もともとはアニメ業界の住人ではありませんでした。文学座の研究生などを経て、日大芸術学部卒業後は主に芸能畑で公演プロデューサーを務めてきました。そのため音楽に関する知識は豊富で、交渉能力に優れていたそうです。父親は東大出身のエリートという家柄で、長身で見栄えもよく、役者を目指していたことからプレゼンテーションを得意としていました。

 そんな西崎プロデューサーがアニメ業界への足掛かりにしたのが、“マンガの神さま”手塚治虫氏が設立したアニメーションスタジオ「虫プロダクション」の子会社「虫プロ商事」です。1970年代に入り、「虫プロ」も「虫プロ商事」も火の車状態でした。入社して間もない西崎氏は、『ワンサくん』(フジテレビ系)、『海のトリトン』(TBS系)のテレビ放送を次々と決めてみせました。手塚氏は大喜びしたそうです。

 西崎氏の巧みな営業手腕については、『「宇宙戦艦ヤマト」をつくった男 西崎義展の狂気』(講談社)が詳しく触れています。西崎氏は、関係者を銀座の高級クラブで接待し、裏金まで用意するなど独自の交渉術で、難しい案件を動かしていたのです。それまでのアニメ業界にいた穏やかな人たちとは、仕事の進め方がまったく違ったのです。

 気性の激しかった西崎氏ですが、才能ある人材を見抜く能力も持っていました。後に『機動戦士ガンダム』で大ブレイクする富野由悠季監督は、西崎氏が手掛けた『海のトリトン』で監督デビューを果たしています。作曲家・宮川泰氏に『宇宙戦艦ヤマト』の音楽を依頼したのも、西崎氏です。自分がプロデュースする作品をとことん面白くしようという情熱には、嘘はありませんでした。

「虫プロ」末期に発案された企画書

 これまでにはなかった本格的なSFアニメを作ろう、という西崎プロデューサーの声がけに、「虫プロ」出身のSF作家・豊田有恒氏、ベテランアニメーターの山本暎一氏、売れっ子脚本家の藤川桂介氏、そして人気漫画家の松本零士氏らが集まって生まれたのが『宇宙戦艦ヤマト』です。山本氏の回顧録『虫プロ興亡記』(新潮社)によると、山本氏と西崎氏との連名で企画書が作成されたそうです。「虫プロ」末期となる1973年のことでした。

 長年にわたって「虫プロ」を支えてきた山本氏にしてみれば、ビジネス感覚に優れた西崎氏と組んで『宇宙戦艦ヤマト』を成功させれば、「虫プロ」の崩壊を防ぐことができるという気持ちがあったのではないでしょうか。残念ながら、『宇宙戦艦ヤマト』のTVアニメ化が実現する前に「虫プロ」は倒産してしまいます。でも劇場版『宇宙戦艦ヤマト』が大ヒットしたことで、日本ではかつてないアニメブームが花開くことになったのです。

 主人公・古代進は無鉄砲な一面がありますが、艦長の沖田十三が厳しくも温かく見守っていました。西崎氏は、東大卒である父親へのコンプレックスを終始抱いていたそうです。古代たち若い世代を支える沖田艦長は、西崎氏にとって「理想の父親」像だったようです。さまざまな人たちのさまざまな想いをのせて、ヤマトはイスカンダル星を目指していたのです。

 西崎氏は、『宇宙戦艦ヤマト』と続編『さらば宇宙戦艦ヤマト』を大ヒットさせ、時の人となりました。しかし、「ヤマト」シリーズ以外のヒット作は放つことができず、1997年と1999年には刑事事件を起こし、実刑判決を受けています。ここまで毀誉褒貶の激しいアニメプロデューサーは他にはいません。

「ヤマトがなかったら現在の日本のアニメはなかったかもしれない。アニメファンもオタクも生まれなかった」

 庵野秀明監督は、西崎プロデューサーとの対談(「週刊プレイボーイ」2008年2月25日号)でそう語っています。事務所が赤坂にあったことから、「赤坂のデスラー」と西崎氏は自称していたそうです。デスラーばりの豪腕ぶりを発揮した西崎プロデューサーがいなければ、日本アニメの風景はずいぶんと違ったものだったことは間違いないでしょう。

(長野辰次)

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