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注目の『ドラえもん』連載第1話、その裏で作者が置かれていた「逆境」とは

編集部から「終了」勧告も、連載継続を諦めなかった

『ウメ星デンカ』の最終回に掲載された、新連載の予告ページ。「ドラえもん」の文字も姿もまだ描かれていない(画像:小学館)
『ウメ星デンカ』の最終回に掲載された、新連載の予告ページ。「ドラえもん」の文字も姿もまだ描かれていない(画像:小学館)

 今でこそマンガの神様のような存在の藤子・F・不二雄先生ですが、『ドラえもん』連載直前は不遇の時期でした。
 
 藤子不二雄・A・先生との合同ペンネーム「藤子不二雄」名義で17歳でデビューし、少年誌を中心に活躍していた藤子・F・不二雄先生の、作家としての大きな転換点となったのは1964年に発表した『オバケのQ太郎』でした。ふたりの事実上最後の合作とも称され、石ノ森章太郎や赤塚不二夫などスタジオゼロの面々も作画で参加した同作は社会現象ともいえるヒットとなり、後に藤子・F・不二雄先生の代名詞となる、日常と非日常を組み合わせた「SF(すこしふしぎ)」の世界観を確立します。

 しかし『オバケのQ太郎』旋風があまりに強すぎたため、続いて発表した『パーマン』『チンタラ神ちゃん』『21エモン』などは期待されたほどのヒットには至らず、そこに『ウメ星デンカ』の突然の終了が告げられたのです。

 学年誌で連載していた『ウメ星デンカ』は、通常であれば年度末の3月に発売する号で最終回を迎えるはずでしたが、連載中に始まったアニメが9月に放送終了したこともあり、11月発売の号で終了することになったのです。藤子・F・不二雄先生は、4か月も前倒しで新作を考えなくてはいけなくなりました。

 こうした切羽詰った状況下で、6種類の『ドラえもん』第1話をも懇切丁寧に描き分けたと思うと、藤子・F・不二雄先生の漫画家としての誠実さとその力量を改めて見せつけられたような気がします。

 しかし、『ドラえもん』も連載直後から人気が出たわけではありませんでした。『ドラえもん』の初期にアシスタントを務めたえびはら武司先生のエッセイマンガ『藤子スタジオ アシスタント日記』によれば、担当編集から度々『ドラえもん』を終わらせるよう薦められ、藤子・F・不二雄先生は「もうちょっと『ドラえもん」を評価してくれてもいいのにな……」とつぶやいていたそうです。

 実際、1974年3月発売の学年誌に描かれた「さようなら、ドラえもん」(てんとう虫コミックス第6巻収録)で、『ドラえもん』は幕を終える予定でした。
それでも、4月以降も引き続き連載が続いたのは、「『ドラえもん』だけは続けさせてくれ」と、藤子・F・不二雄先生自らが編集部を説得したからです。

 そして連載開始からおよそ5年後の8月、小学館の児童向けコミックスレーベル、「てんとう虫コミックス」の第1弾として『ドラえもん』第1巻が発売されたのをきっかけに人気が爆発し、国民的作品への道を歩んでいきます。

「さようなら、ドラえもん」において、ひとりで何度もジャイアンに立ち向かっていったのび太のように、藤子・F・不二雄先生のあきらめない心が『ドラえもん』を復活させ、世代を超えて読み続けられる名作へと成長させていったのです。

(倉田雅弘)

【漫画】国民的マンガはここから始まった! 『ドラえもん』第1話のシーン(8枚)

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