趙雲の妻は誰だった? 「兄嫁を妻に」の申し出に鉄拳制裁、「針で突かれて死亡」の衝撃エピソード
「長坂の戦い」で名を上げた趙雲にはふたりの息子がいますが、史実だけでなく『三国演義』にも妻の姿はありません。兄嫁を勧められて激怒した逸話や、後世に生まれた最強妻や奇妙な伝承など、知られざる「趙雲の妻」の物語を紹介します。
「無礼もくそもあるものか、この蛆虫めが」

「趙雲」は劉備の息子・阿斗を胸に抱き、敵陣を一騎駆けした「長坂の戦い」で知られ、『三国志』の数のなかで、多くの見せ場がある人物です。趙統と趙広というふたりの息子がいたことから、妻の存在は確実ですが、その正体は不明です。そのためか、趙雲の結婚相手については創作が入りやすく、さまざまな「妻たち」が登場しています。
趙雲の潔癖なカタブツぶりを象徴する有名な逸話が、桂陽の太守・趙範(ちょうはん)との「兄嫁騒動」です。劉備軍が侵攻してくると、趙範は趙雲に取り入ろうと寡婦となった兄嫁を嫁がせようとします。
その申し出を聞いた趙雲は目を見開いて激怒、趙範の顔面に鉄拳をお見舞いし、こう言い放ちました。
「兄嫁を客席にはべらすさえ言語道断。そればかりか、その兄嫁を男にすすめるなど畜生にも等しい!」
その後、桂陽を平定した劉備が「なぜ美女を手に入れる機会を断ったのか」と問うと、趙雲はこう答えます。
「力づくで太守の兄嫁を奪ったと思われるのは、劉備の徳が知られていない地では害になる。家臣が驕り高ぶれば、その後の統治に支障が出る」と。
この完璧な回答に、劉備と孔明は「真から武人だのう」と感嘆の声をあげました。正史には鉄拳制裁の描写はなく、口頭で断ったとだけ伝わっていますが、趙雲の潔癖さが伝わる逸話です。
このような人物像だからこそ、正史・演義のいずれにも女性関係の記述がないのかもしれません。
創作で「最強カップル」爆誕?
1920年代、周大荒が新聞小説として発表した『反三国志』は、蜀が圧倒的な力で曹操や孫権を滅ぼし、中華を統一するという歴史改変型の二次創作です。
そこで登場するのが、馬超の妹にして趙雲の妻となる「馬雲リョク(馬へんに綠の右側)」です。ゲーム『三國志』シリーズや『真・三國無双』でおなじみのキャラクターですが、実は史書にも『三国演義』にも登場しません。
作中では兄・馬超に匹敵するほどの豪傑として描かれ、趙雲と互角に張り合う「最強カップル」として存在感を放っています。まさに「馬超の妹」「趙雲の妻」という空白を埋めるために創造された人物といえるでしょう。
嫁に針で突かれて「失血死」
趙雲の墓がある四川省大邑県や、故郷の河北省正定県に伝わる民間伝承の中には、趙雲の妻にまつわる耳を疑うような逸話も残されています。その妻の名は「孫軟児(そん なんじ)」です。
戦場で傷を負ったことがないと自慢する趙雲に、孫軟児はふざけて刺しゅう針で軽く突きました。すると針の穴から血が止まらなくなり、趙雲は失血死、あるいは「気が抜けて」死んでしまったというのです。
実は、日本にも非常によく似た最期を伝えられる武将がいます。徳川家康の最強の家臣・本多忠勝です。忠勝もまた、生涯57度の合戦で一度も傷を負わなかった無傷の猛将です。しかし晩年、小刀で細工物をしている最中に指を少し切り、自身の衰えを悟ってそのまま世を去ったと伝えられます。
英雄は完璧であればあるほど、その完璧さが破られた瞬間に死を迎える――そんな寓話のような伝説です。
趙雲の妻が誰だったのか? それは史書には残されていません。しかし、余白があったからこそ、後世の創作者は自由な妻を描くことができました。そこに馬雲?のような男勝りの女武将や寓話のような最期が描き出されたのです。
歴史の記述を変えることはできません。しかし空白を埋めることはできます。趙雲の妻をめぐる数々の「トンデモ設定」は、彼がいかに愛されてきたか、その象徴といえるでしょう。
(レトロ@長谷部 耕平)



