宮崎吾朗監督はスタジオジブリの転換点にいた…『アーヤと魔女』で注目すべき「新たな風」
企画中心主義への転換を図った『コクリコ坂』
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一方、続く2011年の『コクリコ坂から』は、『崖の上のポニョ』の制作を終えた宮崎監督が打ち出した、スタジオジブリ新たな五か年計画の一環でした。
計画の内容は、2010年と2011年に若手監督の新作を、その2年後に宮崎監督自身の作品を発表する……というもので、米林宏昌監督作品『借りぐらしのアリエッティ』と『コクリコ坂から』、そして『風立ちぬ』がそれらにあたります。
同計画について鈴木プロデューサーは、これまで宮崎監督と高畑勲監督ら企画から制作まで主導する“監督中心主義”を敷いてきたスタジオジブリで、プロデューサーや若手監督が軸となって制作する“企画中心主義”を実践するためのものだったと後に語っています。
過去にも『耳をすませば』『猫の恩返し』など、宮崎監督たちが立案した企画を若手監督に任せることはありましたが、それをより計画的に行うことで、新たな人材育成を図ろうという試みでした。
実はこの頃、吾朗監督は後にテレビシリーズを手掛けることになる『山賊のむすめローニャ』の企画を進めていました。しかし吾朗監督に子供が生まれたことを契機に和解した宮崎監督が、今度は制作について「こうしたほうがいい」など、過剰に干渉してきます。度重なる介入によって混乱した吾朗監督は『ローニャ』の企画を凍結して、『コクリコ坂から』に参加しました。
結果的に『コクリコ坂から』は2011年の邦画興行収入第1位、興収44.6億円のヒットとなり、作品としても前作『ゲド戦記』を超える高い評価を受けましたが、企画当初から参加していた『ゲド戦記』や自身の企画である『山賊のむすめローニャ』と違って、制作の指針がなかなか掴めず、苦しんだそうです。
吾朗監督は後に『コクリコ坂から』について「(雇われ監督みたいな)そういう気分はどこかにありました。僕はもうこれをやらなきゃいけないという感じだったので、『ゲド戦記」の時よりも実はメンタル的にきつかったですね」と語っています(※丸カッコ内は筆者が加筆)。
『コクリコ坂から』を終えて不完全燃焼じみた感情にとらわれていた吾朗監督は、鈴木敏夫プロデューサーの助言もあり、スタジオジブリを離れた形でのアニメーション制作を決意します。
そうして川上量生プロデューサーとともにポリゴン・ピクチュアズで制作したのが、NHKで放送されたテレビアニメシリーズ『山賊のむすめローニャ』です。この作品は主に3DCGを「セルルック」と呼ばれる手描き調に加工する手法で作られており、スタジオジブリではできなかった表現の作品です。
この作品でCGの可能性に目覚めた吾朗監督は「ローニャが終わってからは、機会があればシリーズだろうが映画だろうが、何でもいいからやりたい」と思えるほど復活していました。