「マンガなんかで」投げられた批判…後ろめたさ。それでも“狂気の戦場”戦後世代が伝え続ける理由
戦死者の最期を「盛る」役割とは
しかし、武田さんは戦争を経験していない世代。戦争を知らない世代が戦争を伝えるためには、物語や登場人物に工夫が必要でした。
そのひとつが、主人公の田丸を「功績係」という任務に就かせたこと。

功績係とは、誰がどんな功績を戦場で挙げたかを記録する係のこと。実際に当時存在した役職です。しかし、時には記録を残すだけでなく、ある特別な任務を任されることもありました。それは、兵の名誉を守るために、その最期を「脚色」することです。
第一話、主人公の田丸は同期の小山一等兵と仲良く炊事任務をこなしています。小山は戦争で勇ましく死んだとされる父のように立派に死にたいんだと田丸に告げますが、その矢先、空襲の音に驚き転び、岩に頭をぶつけて死んでしまいます。
その日、上官は田丸に「遺族の気持ちを考えれば、転んで頭をぶつけたなどとは書けん。せめて手紙の中だけでも」と涙ながらに小山の無念を語り、遺族宛てに「最期の雄姿」を捏造(ねつぞう)するよう命じるのです。
この「戦死者の最期を盛る」話を、作品において重要な最初のエピソードとして選んだことには理由があります。
「僕らは戦争を直接知らない。当時の人が書いたものや証言が本当なのか、本当だとしてもどの程度本当なのか、僕らが後世に伝える時、そこからまず考える必要があります」
英雄的行動を美談として広めて戦意高揚させる例は、戦争当時も数多くありました。たとえば、1932年、中国の上海事変で、爆薬を詰めた破壊筒を担いで敵陣の鉄条網に突っ込み、戦死後「英雄」とたたえられた「爆弾三勇士」などが有名です。

武田さんは、資料や証言に触れる場合だけではなく、マンガや小説、映画のような物語を読む時にも、情報を鵜呑みにしないことが重要だと考えます。うその手紙を書いた後、田丸は小山の父の「最期の雄姿」も創作されたものではと疑念を持ちますが、武田さんは「このマンガを読む読者も、同じ態度でいてほしい」と説きます。

また、現代の読者に共感を持って読んでもらうために、田丸をマンガ家志望にしたといいます。「当時の職業は現代人には想像しにくいものもあるが、マンガ家なら小学生でも想像しやすい」と考えたからです。
「マンガなんかで伝えられるのか?」戦争体験者からの痛烈な批判
さまざまな工夫を凝らし、戦争の実態を描いた武田さんですが、連載中には多くの葛藤を抱えていました。それは執筆にあたって、戦争体験者に聞き取り調査を行っていたときに直面します。
物語は太平洋戦争の時代から現代に舞台を移し、主人公・田丸の孫がペリリュー島の戦いを後世に伝えるため、生存者に取材をする場面が描かれます。
「マンガ…話を聞けば体験していなくても描けるとお考えですか?」

作中で取材拒否される場面に登場するこのセリフは、まさに武田さんが自身の聞き取り調査中に、戦争体験者から実際に言われたものです。
「予想していた言葉でしたが、協力的な方が続いた後だったので衝撃的でした」
武田さんは葛藤を抱えることになります。
「連載中はずっと後ろめたさがありました。取材しているとはいえ想像も交えて描くのですから、本来は批判されても仕方ありません。『自分に戦争を描く資格があるのか』と、ずっと問いかけ続けていました」
巨匠ちばてつやさんが「腹を立てた」こと

戦争体験世代のマンガ家も、かつて同じような思いを抱いていました。
『あしたのジョー』で知られるちばてつやさんは、幼い頃、満州で終戦を迎え、命からがら家族とともに日本に引き揚げてきた経験を持ちます。ちばさんは武田さんの作品を、「やわらかいキャラクターでクスッとさせながら、ドキリとさせる表現を織り込んでいて素晴らしい表現力」だと絶賛し、マンガの帯にも推薦文を寄せています。

そんなちばさんは、現在連載中の自伝マンガ『ひねもすのたり日記』で、幼少期の引き揚げ体験を綴っていますが、若い頃には特攻隊を題材にした『紫電改のタカ』も発表しています。その時、ちばさんとマンガ編集者の間でのせめぎ合いがあったと言います。
「連載中、人気が落ちてきた時、担当編集にもっと華やかで面白いものを描けと言われました。それで、実際にはあり得ないような派手な戦いを描いてしまったんです。戦争は面白いものじゃないのに、面白く描けと言われて腹が立ちました。『興味本位の創作をしてしまって申し訳ありません』と、心の中で謝り続けながら描いていました」

























