なぜに? 『ナウシカ』音楽は「YMO」細野晴臣が担当するはずだった 交代劇の真相とは
徳間ジャパンの思惑に反し、怒涛のような「交代劇」が

●当時から「音楽界のスーパースター」だった細野晴臣さん
細野さんは、1960年代末に伝説のバンド、はっぴいえんどを結成して活躍。その後、多数のフォーク、ニューミュージック系アーティストの楽曲に参加、荒井由実(後の松任谷由実)さんのプロデュースやソロ活動を経て、80年代前半には「テクノポップ」を打ち出したYMOで世界を席巻しました。
同時に、はっぴいえんど時代の盟友、作詞家の松本隆さんとともに、松田聖子さんや中森明菜さんなど、アイドルや歌謡曲界に多くの楽曲を提供しています。前述のイモ欽トリオ「ハイスクールララバイ」も松本さんと細野さんのコンビによる曲でした。
『ナウシカ』の制作が行われていた83年の時点で、細野さんはフォーク、ニューミュージック界の大物であり、世界的な知名度を誇るミュージシャンであり、ヒットチャートを賑わすヒットメーカーでもあったわけです。
細野さんを『ナウシカ』の音楽担当に推したのは、徳間ジャパンでした。徳間ジャパンの最高責任者である三浦光紀さんは、それ以前に在籍していたベルウッドレコードではっぴいえんどや細野さんのソロアルバムなどを制作していた人です。「ニューミュージック」という言葉は三浦さんが流通させたものだとされています。
三浦さんはメディアミックスプロジェクトの一環として、松本さんに歌詞、細野さんに曲を発注。安田成美さんの歌唱によるイメージソング「風の谷のナウシカ」を完成させます(84年1月25日発売)。この曲が『ナウシカ』のエンディングに使用されるはずでした。
●高畑さんが下した決断
細野さんが映画本編の音楽を担当するのは既定路線でした。メディアミックス戦略を推進する徳間書店グループ、徳間ジャパンとしては、知名度のある細野さんを音楽に起用したいという考えは当然でしょう。
しかし、83年12月になっても音楽担当者は決まりませんでした。公開は84年3月。もう時間がありません。それでも宮崎監督と高畑さんは首を縦に振りませんでした。ふたりは細野さんのこれまでの曲を聴き、『ナウシカ』には合わないと感じていたのです。
音楽は細野さんではなく、久石さんが担当することになりました。84年1月のことです。決断を下したのは高畑さんです。当時、徳間書店に在籍していた鈴木敏夫さんは、当時の高畑さんの言葉を次のように振り返っています。
「細野さんも大変な才能の持ち主だけど、ナウシカに合うかといえば違うんじゃないか。この人は夏のけだるさを表現したら得意な人で、情熱的な曲は作らないだろう。宮さんは熱血漢だから、熱い曲を作る人のほうがいい」(『ジブリの教科書I 風の谷のナウシカ』文春文庫)
細野さんはYMOのテクノサウンドで名を馳せていましたが、同時にニューミュージックの人、アイドル・歌謡曲界の人でもありました。架空の世界を描くアニメだからこそ、民族音楽的なアプローチが必要だと考えていた高畑さんには物足りなく感じたのかもしれません(細野さんが民族音楽に傾倒していったのは80年代後半からのことです)。
決定的だったのは、宮崎監督が久石さんの『鳥の人…』を大変気に入っていたことでした。宮崎監督はテープを繰り返し聴きながら、音楽に乗って作業を続けていたそうです。『ナウシカ』と久石さんの音楽は、もはや分かちがたいものになっていました。その上で、高畑さんは決断を下したのです。細野さんが作曲し、安田成美さんが歌う「風の谷のナウシカ」がエンディングで流れることもなくなりました。
●宮崎監督、高畑さんがイメージしていた音楽とは
音楽担当が久石さんに決まってからも、音楽の打ち合わせは難航しました。当初、宮崎監督が抱いていた主題歌のイメージは、ピアニスト・作曲家の高橋悠治さんが率いる音楽集団・水牛楽団の「ポーランドの歌」です。水牛楽団とは、ケーナや大正琴などの民族音楽の楽器を用いて、抑圧された民衆のための歌を歌うというコンセプトで作られた集団です。悲しげでありつつ、力強い歌声が印象的な曲でした。
高畑さんがエンディングにイメージしたのは、ソビエト連邦(当時)のギター弾き語りの詩人、ウラジーミル・ヴィソツキィの「大地のうた」でした。しわがれた声で訥々(
とつとつ)と、それでいて力強く歌われる曲です。宮崎監督も大いに気に入って、実際に使用しようとしましたが、版権問題で実現しませんでした。
宮崎監督が書き下ろした歌詞に久石さんがシャンソン風の曲をつけて、来日中だったスーダンの弾き語り詩人、ハムザ・エルディに歌唱してもらいましたが、これもイメージしたものとはほど遠く、失敗しています(『宮崎駿全書』フィルムアート社)。
これらのアーティストの曲を聴くと、当時、宮崎監督と高畑さんが『ナウシカ』にどのような曲をつけようとしていたのかをうかがい知ることができます。たしかに80年代前半までの細野さんのサウンドとは距離を感じざるを得ません。
音楽に通じていた高畑さんの劇伴音楽に対する考え方と、久石さんがイメージアルバムで作り上げたサウンドが一致し、それを気に入った宮崎監督がいつの間にか『ナウシカ』の血肉として取り込んでいた。だから、このように劇的な音楽交代劇が起こったのでしょう。
さまざまな試みの後、イメージアルバム『鳥の人…』に立ち返ることになり、久石さんは2月7日から2週間ほどの突貫作業で全60曲のレコーディングを終了しました。その後、宮崎監督と久石さんは40年にも及ぶパートナーシップを結ぶことになったのです。
(大山くまお)



