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3月30日は『宇宙戦艦ヤマト』最終回の放映日 ヤマトが救おうとしたのは「地球」ではなかった?

『ヤマト』企画は窮地の「虫プロ」を救う切り札だった

虫プロを出た富野監督は、『機動戦士ガンダム』で若者たちの宇宙の旅を描くことになる。画像は『機動戦士ガンダム』DVD-BOX(バンダイビジュアル)
虫プロを出た富野監督は、『機動戦士ガンダム』で若者たちの宇宙の旅を描くことになる。画像は『機動戦士ガンダム』DVD-BOX(バンダイビジュアル)

 西崎義展プロデューサーが原案・企画を務めたことが知られている『宇宙戦艦ヤマト』ですが、企画が立ち上がったのは放送前年の1973年3月ごろです。当時の西崎プロデューサーは「虫プロ」でミュージカルアニメ『ワンサくん』(フジテレビ系)などを手掛けており、「虫プロ」のチーフアニメーターだった山本暎一氏との連名で『宇宙戦艦ヤマト』の企画書を作成し、テレビ局に提案して回っています。

 このころの「虫プロ」は赤字経営が続き、倒産寸前の状態でした。『宇宙戦艦ヤマト』は「虫プロ」の危機を救うための起死回生の切り札だったのです。

 山本暎一氏の回顧録『虫プロ興亡記』(新潮社)を読むと、「日々悪化する状況のなかで、世界が崩壊するような感覚」で『宇宙戦艦ヤマト』の企画書をまとめたと語られています。しかし、時すでに遅し。読売テレビが企画にGOサインを出したときには、「虫プロ」は倒産してしまっていたのです。

 そのため、西崎プロデューサーの個人事務所「オフィス・アカデミー」が制作母体となって、『宇宙戦艦ヤマト』は誕生します。

富野監督が「虫プロ」で過ごした新人時代

 富野由悠季監督といえば、『機動戦士ガンダム』(テレビ朝日系)の生みの親として有名です。富野監督も「虫プロ」でキャリアをスタートさせています。日大藝術学部を卒業したばかりだった富野監督は、すぐに制作現場に放り込まれ、TVアニメ『鉄腕アトム』(フジテレビ系)で脚本&演出デビューをはたします。1964年~66年のことです。

 そのころの「虫プロ」は、カラーアニメ『ジャングル大帝』(フジテレビ系)の制作に主力スタッフが集められ、シリーズ中期以降のモノクロ版『鉄腕アトム』は富野監督ら経験の乏しい若手スタッフに任された状態だったそうです。富野監督は人気エピソード『青騎士』をはじめ、最多エピソードを演出するという新人らしからぬ大活躍ぶりでした。

 しかし、富野監督は「虫プロ」に居心地の悪さを感じ、1967年に退職。その後、旧「虫プロ」のスタッフが立ち上げた「日本サインライズ」で制作した『機動戦士ガンダム』で大ブレイクします。『機動戦士ガンダム』の主人公アムロ・レイら少年少女たちが戦闘経験もないまま、新型艦「ホワイトベース」に乗り込み、サバイバルを強いられるという設定は、「虫プロ」時代のシビアな体験が投影されているように感じます。

 SFアニメの金字塔とされる『宇宙戦艦ヤマト』と『機動戦士ガンダム』ですが、その源流は「虫プロ」にあったと言えるのではないでしょうか。

 沖田艦長が息を引き取った後、ヤマトは地球へと帰還します。そして赤茶けていた地球は、美しい青色に戻っていきます。ヤマトのクルーたちが救おうとしたのは、実は赤字経営だった「虫プロ」だったのかもしれません。

(長野辰次)

【画像】長い旅だったな… これがボロボロになった「ヤマト」です

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