ツッコミ殺到した『デスノート』ポテチのシーン 通しで見ると「それほど違和感なし」の理由とは?
主人公の夜神月が「ポテチにテレビを仕込む」シーンは伝説となっています。しかし、そこまで「妙」なシーンだったのでしょうか。改めて読み直して確認すると…‥?
小型テレビをポテチに……そんなに変だったっけ?

平成を代表するジャンプ作品である一方で、今なお盛んにネットで「そんなアホな」とツッコミを受けている作品といえば、そう、『DEATH NOTE』(原作:大場つぐみ、作画:小畑健)です。
相手の名前を書き込み、その命を奪うことのできる「デスノート」を手に入れた主人公、夜神月(やがみらいと)が、悪人を抹殺し、理想の世界を目指す……という設定は、斬新さもさることながら、いわゆる「友情・努力・勝利」路線とは異なる、新たな少年マンガの地平を切り開きました。
とはいえ、『DEATH NOTE』に時折発生する「隙アリ」の場面に、連載が終わって20年近く経過した現在もなお、SNSではよく「そんなアホな」とツッコミを受けています。
有名なシーンのひとつが、部屋中に監視カメラを設置された夜神月が、小型テレビと、デスノートの紙片をポテチの袋に仕込み、勉強しながら、犯罪者の名前をデスノートに書き込む場面です。なるほど、これは「アリバイ」証明のために夜神月が採った手段ではありますが、そのシーンだけみると……「そんなアホな」と思ってしまう気持ちもわからなくもありません。
他方、筆者はリアルタイムで連載を追っていた世代です。このシーンも連載当時、周囲で話題にはなりましたが、そこまで「総ツッコミ」を受けてはいませんでした。少なくとも、今そのシーンだけ見返したときに感じる「強烈な違和感」があったとは言い難いのです。もちろん、当時の年齢やリテラシーによって、その印象は大きく異なるでしょう。ということで、大人になった現在、改めてこの「ポテチテレビ」の場面まで、原作を読んでみましょう。
結論として、ストーリーの流れにそって読んでいく、思わず失笑するほどの「違和感」が生じ得るかといえば、やや疑問です。というのも、この「ポテチ」が登場する第17話に至るまで、すでに読者は数えきれないほどの「そんなアホな」を受け入れながら、夜神月を追ってきたのです。
まず、「デスノート」と「死神」というファンタジーを受け入れて読み始め、次に夜神月という主人公が「全国模試1位」の天才高校生であることを受け入れ、さらに世界中のどんな事件も解決する正体不明の天才である「L」の存在も、彼の部下である「ワタリ」の非現実的な姿も、順次受け入れて読み進めてきました。

加えて、主人公である夜神月の大胆不敵ぶりは、「ポテチテレビ」に始まったことではありません。死の直前の行動を「デスノート」に書き込み、犯罪者を操る、バスジャックにわざと遭遇した際に、「デスノート」の切れ端を使って「死神リューク」の姿を犯人に目撃させ、それにおののく姿を捜査官に「麻薬による幻覚症状」だと思わせるなど、「デスノート」の使い方も実に鮮やかでした。
それでいて、細やかな「工作」的なギミックも、「ポテチ」以前から何度か登場しています。ノートの隠し場所である机の引き出しが二重底になっており、無理に取り出そうとすれば、電気が流れてガソリンに引火し、ノートが燃え尽きる仕組みなども序盤に登場しています。
これらを経て、登場した17話の「ポテチ」シーンです。なんならその直前には、夜神月の部屋に64個もの監視カメラがつけられているという驚愕の事実があっさり明かされています。すでに読者は「ポテチのなかにカメラとデスノートの切れ端を仕込む」くらいのことなら、すんなり受け入れる準備が整っていたのでした。
とはいえ、やはりこのシーンのみを読むと「そんなアホな」と、冷静になってしまいます。「コンソメ味は本当に月しか食べないのか」「その角度で小型テレビが見えるのか」「ポテチのゴミは監視対象じゃないのか」など、無粋な疑問が次から次へと湧いてきます。
どうしてこんなに野暮なツッコミをしたくなるのか。その元凶ともいうべきは、作画担当、小畑健さんの圧倒的な「画力」です。絵があまりにも美麗かつリアルなため、それが余計に「ポテチテレビ」のおかしみを増幅させてしまっています。
そもそも非現実極まりない状況を、もっともらしく表現してしまう小畑健さんの画力が、今なお「ツッコミ」を産み続けているといっても良いかもしれません。小畑健さんの作画でなければこうもネタにされることはなく、同時に小畑健さんの作画でなければ、『DEATH NOTE』は成立しなかったことでしょう。
(片野)