『果てしなきスカーレット』以前からあった「細田守の単独脚本」への意見 問題点は「企画段階」にある?
評価が「大荒れ」の『果てしなきスカーレット』を手がけた細田守監督は、以前から単独で手がけた脚本に批判が寄せられていたものの、一向に他人に任せてはいません。彼の近年の作品には、根本的な「企画段階から」の弱点があるように思えるのです。
『未来のミライ』で参考にしたのは息子の夢

11月21日より劇場公開中のアニメ映画『果てしなきスカーレット』の評価が、「大荒れ」になりました。公開初日にSNSで激烈な酷評が拡散され、徐々に擁護する意見や絶賛の声もみられるようになったものの、依然として映画.comでは2.8点、Filmarksでは2.9点(11月28日現在)とレビューサイトのスコアは低いままです。
その低評価に伴って頻出しているのは、「細田監督は脚本を書くのをもう諦めてほしい」「『国宝』の奥寺佐渡子さんを脚本家として呼び戻してほしい」という意見です。
これまでの細田作品では『時をかける少女』と『サマーウォーズ』は奥寺さんが単独で、『おおかみこどもの雨と雪』では奥寺さんと細田監督が共同で脚本を手がけていましたが、続く『バケモノの子』は細田監督の単独脚本で、奥寺さんは脚本協力にクレジットされました。そして『未来のミライ』からは、細田監督の単独脚本となっています。
なぜ細田監督の単独脚本は、批判される傾向にあるのでしょうか。振り返ると、「細田監督は脚本をほかの人に任せた方がいい」という指摘だけではすまない、もっと根本的な問題があるのではないか、脚本を手直ししたりするより前の、企画段階から誰かが介入する必要があるのでは、とも思えるのです。その根拠を記していきましょう。
●「息子の夢」から話を作り上げた『未来のミライ』の問題
『バケモノの子』から単独で脚本を手がけた理由について、細田監督は公開よりも前(2014年末)のファミ通.comの記事で「これは僕にとってのチャレンジです。いままでは優秀な脚本家である奥寺佐渡子さんに頼ってばかりだったので、自分も修行をするつもりです」と答えていました。単純に、その「脚本の修行」がいまも続いていると言えるでしょう。
しかしながら、奥寺さんが脚本協力のクレジットからも離れた『未来のミライ』からの細田作品は、「脚本の作りというよりも企画段階から相容れない要素を含んでいる」と思ってしまうのです。
これまでも身近な経験を映画に反映してきた細田監督は、『未来のミライ』で「自身の息子が生まれてきた妹に嫉妬している」ことを物語の基盤としています。細田監督は起きたばかりの息子に「どういう夢を見ていたか」を聞きながら、『未来のミライ』をどういう話にするのかを決めていったとのことで、その夢のなかには「大きくなった妹に会った」というものもあったそうです。
そして、そういった夢がそのまま映画に取り入れられたものの、実際に出来上がった『未来のミライ』にはまさに「夢のような荒唐無稽さや支離滅裂さ」がありました。もちろん、それも含めて作品の魅力と言うこともできますが、物語の発端である「妹への嫉妬」という感情と、終盤に言葉で告げられるテーマが、有機的に結びついていないようにも思えます。
●細田監督は自身の仕事を「脚本・監督」ではなく「企画・監督」だと思っている
「脚本というよりも企画段階から問題があるのではないか」という疑いは、今回の『果てしなきスカーレット』のSNSで公開されたショート動画で示された「意識」から、さらに強まります。
細田監督は
「脚本・監督ってクレジットされているけど、僕が本当にやっていることは本当は『企画』ですよね。『企画・監督』ですよ。その企画っていうのが脚本であり、それを企画通りに映画にしてみせるのが監督の仕事っていう」
と、「自身がやっていることは脚本というよりも企画」だとはっきり語っているのです。
もちろん脚本の定義は人それぞれあるでしょうが、筆者個人は脚本は何稿も何稿も書き直して細部をブラッシュアップしていく過程が必要だと思っています。企画という大局的なものは“プロット”に近く、脚本とイコールではないと思うのです。

