新海誠はアダルトゲームのOPを作ってた? レジェンドアニメーターたちの知られざる仕事
新海誠氏、細田守氏、宮崎駿氏と言えば、数々のアニメ映画を手掛けるレジェンド的存在。そんな彼らが、若手時代にこなしていた知られざる仕事を紹介します。なかには意外な場所で才能を発揮していた方も……。
アニメ界の巨匠が若手時代に手掛けた「意外な名作」
新海誠氏、細田守氏、宮崎駿氏と言えば、日本のアニメ界を背負って立つレジェンドたちです。いまや「アニメ映画の監督」というイメージが強いですが、もともとはTVアニメやゲームのアニメーション制作など、あまり名前を知られない形で参加した作品も多々あります。
この記事では、そんな巨匠たちが若い頃にこなしてきた仕事のなかから、驚きのあるものをピックアップして紹介していきます。知らず知らずのうちに見て「面白い」と思っていた作品が、実はあの監督の作品だった、ということもあるかもしれません。
●新海誠はアダルトゲームのOPを作っていた
いまでは『君の名は。』『天気の子』など数々の名作で知られる新海誠監督ですが、もともとはゲーム会社に勤めていました。退社後に、『ほしのこえ』という自主制作アニメーションを発表し、世間の注目を集めることとなります。
しかし実は、退社後からしばらく、自主制作のほかにアダルトゲームブランド「minori」の5作品でオープニングムービー制作を担当していたのです。
2001年発売、『BITTERSWEET FOOLS』のOPは、鉛筆の線画にデジタルで薄塗りを施した映像。現代の劇場作品と比べるとクオリティが落ちますが、新海監督の特徴ともいえる美しい空の描写が、すでに盛り込まれています。
最後に手掛けた、2008年発売『ef – the latter tale.』のOPに至っては、もはやアダルトゲームと思えないクオリティ。『天気の子』にも通ずる雰囲気で水や光が神秘的に描写され、壮大で美しい世界が広がっています。
新海監督は自身のホームページで、「自分のオリジナル映画のあいま合間に短編制作を挟み込むような感覚で、気持ち的にも技術的にも自作・minori作品間には相互にフィードバックがありました。」とつづっています。このアダルトゲームのOPがあってこそ、今の新海監督があるのかもしれません。
細田守、宮崎駿も若手の頃から圧倒的な才能を見せていた
●細田守は『デジモンアドベンチャー』の“神回”を担当
最新作『竜とそばかすの姫』も大ヒット公開中の細田守監督。彼が名を挙げた作品と言えば、2000年に公開された劇場版アニメ『デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム!』です。この作品は、ストーリー面で『サマーウォーズ』の原型にもなっています。
ここまではそこそこ知られていますが、実は『ぼくらのウォーゲーム!』の前に、TVアニメ『デジモンアドベンチャー』の第21話の演出も務めていました。この第21話「コロモン東京大激突!」は、それまでのストーリーと一気に雰囲気が変わる、“異色の神回”として知られています。
それまでは、7人の子供たちがデジタル生命体・デジモンとともに、「デジタルワールド」という異世界を冒険していく内容。子供が見て楽しいといった雰囲気のアニメでした。しかし、第21話は、主人公・八神太一とパートナーのコロモンだけが、現実の東京に戻ってくるのです。
それまでの世界観から一変したリアルな東京・お台場の描写。長い旅を続けてきたはずが、戻ってきた日は、デジタルワールドに迷い込んだ日と同じ8月1日。太一の妹・ヒカリは旅に出ていないはずなのに、「コロモンもいっしょに来たのね」と、すべてを察したかのような反応。夢と現実があいまいになったような、不思議な感覚に襲われます。
子供の頃にシリーズを見ていて、この回だけは妙に印象に残っているという人も多いのではないでしょうか。
●宮崎駿が『アルプスの少女ハイジ』でこなした伝説的な仕事量
スタジオジブリの顔として、日本を代表するアニメーション映画を送り出してきた宮崎駿監督。あまり知られていませんが、『アルプスの少女ハイジ』では、全話・全カットのレイアウトを担当していました。
レイアウトとは、実写映画におけるカメラマン・演出家にあたる役割で、キャラクターの位置や芝居、背景、カメラワークを決定します。1話あたり300カットほどと考えるとこれだけでも膨大な作業量ですが、さらにアニメーターとして原画の作業も行っていたといいます。
『ハイジ』は毎週放送されていたアニメで、なおかつ全52話という長期にわたる放送。息継ぎなしでこの作業量をこなし続けたのは、まさに超人的と言えます。当時家に帰るのは、1週間に一晩だけだったということです。
もちろん作業量がすさまじいだけでなく、現地の建物も違和感なく描くなど、クオリティも素晴らしいものでした。この宮崎駿の仕事によって、『ハイジ』は最高視聴率25%を超える大ヒットを記録したのです。
(古永家啓輔)