モンキー・パンチ氏一周忌 定時制高校入学のハプニングが作品の土壌を作った?
上京後、貸本漫画家としてデビュー

19歳の時に漫画家になるため上京した加藤氏は、職を転々としながら作品を執筆、1959年に貸本劇画『死を予告する鍵』でデビューを果たします。当時のペンネームは本名を少し変えた「加東一彦」「かとう一彦」を始めとして、「ムタ永二」「霧多永二」など複数の名前を使い分けていました。この時期にアメリカのマンガ雑誌「MAD」の影響を受け、作風がアメコミ風のものとなっていますが、手掛けた貸本の中には『サスケ』『カムイ伝』で知られる白戸三平氏のような作風の作品も存在しており、試行錯誤の跡が伺えます。
その後、後を追って上京してきた弟の輝彦氏と共に貸本漫画家として活動する傍ら、『タイガーマスク』や『0戦はやと』を代表作に持つ辻なおき先生の元でアシスタントを務めるなど旺盛な活動を続けていた加藤氏は、1966年に双葉社の「漫画ストーリー」に『プレイボーイ入門』が掲載され、商業雑誌デビューを果たします(このときのペンネームはムタ永二)。
そうして1967年、双葉社で創刊された「漫画アクション」で遂に『ルパン三世』の連載が始まります。編集長の清水文人氏の命令でペンネームを「モンキー・パンチ」に改名したのもこの頃で、すぐに変えるつもりが作品のヒットにより変えられなくなり、以後使用し続けることになってしまいます。
『ルパン三世』は1971年に初めてアニメ化され、2018年に至るまで5度のTVアニメ化を果たします。中でも1977年から1980年にかけて放送された第2シリーズは特に人気が高く、繰り返し再放送されています。また劇場版やTVスペシャル版なども多数制作され、国民的作品としての地位を不動のものとし、モンキー・パンチの名を世に知らしめました。
2003年、66歳の時に東京工科大学大学院メディア学研究科メディア学専攻に入学するなど勉強熱心だった氏は、2005年には大手前大学人文科学部メディア・芸術学科マンガ・アニメーションコース教授に就任し、後進の育成にあたります。
デジタル作画を嗜好した最初期の人物でもあり、晩年にはアップルのMacintosh(Mac)とワコムの液晶ペンタブレットで作画を行うなど、意欲的な活動を続けていました。2003年にはデジタルマンガ協会の発起人となり、2012年まで会長を務めています。
表現と技術の最先端を絶えず走り続けたモンキー・パンチ氏がマンガ界にもたらした功績は、計り知れないものがあります。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
※参考文献:『追悼、モンキー・パンチ ある漫画家の60年間の軌跡』(双葉社)
(早川清一朗)