【インタビュー】画業65周年の水野英子先生 時代のタブー破り「恋愛マンガ」生んだ
少女マンガの人気ジャンル「恋愛マンガ」は、タブーとされていた時代もありました。トキワ荘に滞在したことで知られる水野英子さんはそうしたタブーを次々と打ち破り、少女マンガの新たな表現を切り拓いてきました。2020年3月に自身の集大成となる『画業65周年 水野英子画集 薔薇の舞踏会』を刊行した水野英子さんにお話を聞きました。
14歳にして手塚治虫に見いだされ、「トキワ荘」で腕を磨く
![ワーグナーのオペラを描いた『ワルキューレ』。『画業65周年 水野英子画集 薔薇の舞踏会』(玄光社)より。 (C)水野英子](https://magmix.jp/wp-content/uploads/2020/04/200413-mizunohideko-01.jpg)
女の子の憧れが詰まった少女マンガ。そのなかで不動の人気を誇る「恋愛マンガ」は、かつてはタブーとされていた時代もありました。その禁忌を打ち破り、初めて正面から恋愛マンガを描いたのが、トキワ荘に紅一点滞在したことで知られるマンガ家の水野英子さんです。
水野英子さんは2020年3月に『画業65周年 水野英子画集 薔薇の舞踏会』(玄光社)を刊行。「少女マンガの歴史そのもの」と言うべき画業をまとめました。かつて石森(現・石ノ森)章太郎さん、赤塚不二夫さんなどが集まったマンガ家の梁山泊・トキワ荘に紅一点として滞在した時代の記憶、そして自らの画業について、水野英子さんに語っていただきました。
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――1955(昭和30)年に「少女クラブ」でデビューして今年で65年。それを記念して『画業65周年 水野英子画集 薔薇の舞踏会』が発売されました。本画集には、デビュー前に描かれた幻の原稿が初めて掲載されたそうですね。
水野英子(以下、敬称略) 小学生の時に手塚治虫先生の『漫画大学』を読んで衝撃を受けた私は、中学生になると「漫画少年」(学童社)にマンガを投稿するようになりました。でも「佳作」止まりでなかなか掲載されず、就職もしました。すると中学卒業と同時に、大日本雄弁会講談社(現・講談社)から手紙が届いたんです。
差出人は「少女クラブ」の編集者で、手塚先生を担当されていた丸山昭さん。当時、手塚先生が滞在していたアパート、並木ハウスで原稿の整理を頼まれた丸山さんが、押入れの天袋にしまわれていた私の作品『赤い子馬』を見つけてくれたんです。それをきっかけに手塚先生からご推薦をいただき、丸山さんから「少女クラブ」でのカットや4コママンガを依頼されるようになりました。まさに運命の投稿作品。この原画を、今回画集で初めて公開しています。
「トキワ荘」では、振り返ると石森先生の背中が見えた
![かつてのトキワ荘の建物を再現した「豊島区立トキワ荘マンガミュージアム」の外観(提供/豊島区)](https://magmix.jp/wp-content/uploads/2020/04/200413-mizunohideko-02.jpg)
――1958(昭和33)年3月には、山口県下関市から上京。同年10月まで、トキワ荘に入居されていますね。
水野 その頃、石森(現/石ノ森)章太郎さん、赤塚不二夫さんと「U・マイア」のペンネームで合作を始めていました。でも、私がいた下関とおふたりがいる東京では、原稿のやり取りが大変だった。上京して、丸山昭さんのお世話でトキワ荘に入居しました。
私の部屋の向かいは石森さんのお部屋。後ろを振り返ると、ちょうど石森さんがマンガを描く背中が見えました。みなさんドアを開けっ放しで、誰でもウェルカムです(笑)。石森さんが掛けるクラシックやポピュラー音楽のレコードに耳を傾けながら執筆していましたね。
トキワ荘は1982(昭和57)年に取り壊されましたが、今年2020年に東京都豊島区に「トキワ荘マンガミュージアム」が開館予定です。トキワ荘を再現した建築で、私も色々アドバイスさせていただきましたので、オープンを楽しみにしてください。