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手塚治虫が描いた戦争奇譚『アドルフに告ぐ』 環境に応じて「擬態」する人間たちの悲劇

環境や立場によって変わっていく主人公たち

雑誌掲載当時の内容・構成を復刻した『アドルフに告ぐ オリジナル版』(国書刊行会)。3分冊+別冊構成で、関係者のインタビューや関連資料なども収録している
雑誌掲載当時の内容・構成を復刻した『アドルフに告ぐ オリジナル版』(国書刊行会)。3分冊+別冊構成で、関係者のインタビューや関連資料なども収録している

 戦争や人種・民族差別といったシリアスなテーマを扱いながらも、手塚治虫氏の天才的なストーリーテラーぶりが発揮され、『アドルフに告ぐ』は最終章まで目が離せません。

 いちばん気になるのは、心優しい少年だったアドルフ・カウフマンの変貌ぶりです。日本人の母親を持つカウフマンは母親のことを慕いながらも、ヒトラーに気に入られようと誰よりもドイツ人らしく、いやナチスの一員らしく振る舞おうとします。ユダヤ人狩りに加わり、親友であるアドルフ・カミルの父親にまで銃を向けるカウフマンでした。

 ヒトラーも、実はカウフマンと似たような立場でした。『アドルフに告ぐ』は、「ヒトラーにはユダヤ人の血が流れていた」という驚きの設定となっています。ヒトラーの父方の血筋がはっきりしないことから生まれた「ヒトラーはユダヤ人だった」という一種の都市伝説をモチーフに、手塚治虫氏はこの壮大な物語を思いついたのです。劇中のヒトラーは出生の秘密を持つがゆえに、純粋なアーリア人に憧れ、ユダヤ人を大量虐殺するという狂気に走ります。

 神戸にいるアドルフ・カミルは日本社会に溶け込み、国民服姿で流暢な関西弁をしゃべるようになります。ドイツに渡ったアドルフ・カウフマンはナチスのエリート士官となり、ユダヤ人虐殺に加担します。そして、アドルフ・ヒトラーは以前から欧州全土にはびこっていた「ユダヤ人嫌悪」の風潮を巧みに利用して、ナチスドイツ総統となり、「千年王国」を築くという野望に取り憑かれます。売れない画家だった青年期のヒトラーとは、まったくの別人です。

 昆虫のなかには環境に応じて、体の保護色を変え、周囲とそっくりに擬態する種類がいます。捕食者から、自分の命を守るための本能です。『アドルフに告ぐ』に登場する3人のアドルフも、環境や立場によって服装やイデオロギーを変えていきます。昆虫好きだった手塚治虫氏は、昆虫も人間も同じように弱い生き物として冷静に見つめていたのかもしれません。

漫画家としてのスキルと少年時代の記憶との融合

 手塚治虫氏は1928年に大阪府で生まれ、神戸に近い兵庫県宝塚市で育ちました。17歳のときに終戦を迎え、軍刀や竹刀を持っていばっていた大人たちの態度がガラリと変わったことを体験しています。

 また、1938年7月に起きた「阪神大水害」や終戦間際の1945年には「大阪大空襲」にも遭遇しています。そうしたハードな体験が、『アドルフに告ぐ』には生々しく盛り込まれています。

 手塚治虫氏が漫画家人生で培ってきたあらゆるスキルと、少年時代に体験した記憶のすべてが結び付き、代表作『アドルフに告ぐ』が誕生したと言えそうです。

(長野辰次)

【画像】大人こそ読み直したい手塚治虫作品 ミステリー、サスペンス要素は一級品!(6枚)

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