ホアキン・フェニックスの『ジョーカー』、熱心なアメコミファンはどう受け止めた?
ホアキンの圧倒的演技力が光る、「暴力」の表現

果たして、公開された『ジョーカー』は熱狂的に支持されました。もちろん、一部では拒否反応もあり、アメコミファンのなかではジャック・ニコルソン版のジョーカーや、ヒース・レジャー版のジョーカーのほうが好きだと声に出す人もいました。
しかし、ホアキンの「ジョーカー誕生秘話」を体現した演技には求心力、魅力があふれていました。アメコミファンの理想のジョーカー像とは離れつつも、認めざるを得ないような「新しいジョーカー」を見せていたように思えます。
ホアキンの演技で圧倒的だったのは“暴力”の表現。コミックやほかの映画では爆破や銃の乱射などストレートな表現が主でしたが、今作は人間の内面にある暴力性のタネが芽を出していくシーンがホアキンによって色濃く表現されていました。
今作において、暴力の表現が重要なシーンをふたつ挙げたいと思います。ひとつ目は身体的、精神的な暴力にさらされてきた主人公アーサーが初めて銃を手に入れたシーン。自分の中にある願いを暴力として表現できることを覚えていく過程を、繊細に表現しています。
ふたつ目は、予告編などでも使われていたトイレでのダンスのシーン。銃で初めて人を殺してしまい、逃げ込んだトイレでダンスを踊る。この無言のシーンに圧倒される人も多かったでしょう。このシーンは元々アーサーが持っていた銃を隠すシーンになるはずでしたが、変更になったという逸話があります。
ホアキンは「彼はひとりでトイレの中にいるから、言葉のないコミュニケーションで変化が起きていることを描かないといけなかった」と語っており、それがあのダンスにつながったというのです。このシーンでは、ダンスをすることで自身のあふれてしまいそうな暴力的衝動を呑み込むように感じられます。「暴力性」を美しく映像的に見せた点に筆者は感動を覚えました。
ホアキンのジョーカーは、内なる暴力性を最も繊細かつ大胆に描いたジョーカーだったといえるでしょう。映画の内容や設定などについてはさまざまな考察がありますが、アメコミファンのなかにあるジョーカー像とはまた違う「新ジョーカー像」を記憶に刻み込んだホアキン・フェニックスは、やはり圧巻だったといえます。
(大野なおと)