賛否を呼び、誤解もあった『ゲド戦記』の「父殺し」改変 どんな意味があったのか
アレンが父を刺したタイミングに意味があった?

●「均衡が崩れた世界」の恐ろしさを示している
とはいえ、筆者個人はこのアレンの父殺しにより、作中の「均衡が崩れた世界」で起こる出来事の恐ろしさを端的に示すことに成功しているとも思えます。
吾朗監督も「均衡とは何かが突出しないという状態であり、その均衡が進めば善悪の判断はほとんどなくなっていく。何かに一直線になりたい若者は、その世界では悩んでしまうんです」と語っていました。
しかも劇中で「ハイタカ(ゲド)」は、作物が枯れ、街では麻薬のようなものがはびこり、店では「まがいもの」の商品が売られるようになるといった、「均衡を崩そうとする動き」について語っており、それができる生き物はこの地上には1種類(=人間)しかいないとも断言してます。
アレンが父を刺したのも、「竜」がとも食いを始め、数々の災厄が王国に告げられたそのときでした。均衡が保たれるというのは良いことのように思えますが、それが続くと若者は悩みを持ったままです。そしていったん均衡が崩れ始めると、膨れあがった悩みは悪意へと変わり、他人への攻撃や、誰かを不幸にする行動へと転じてしまう……ということは、現実の世界でもあり得るものだとも思えるのです。
●世界と人間たちがより良くあるために必要なもの
では、そのように世界の均衡が崩れてしまった時に何をすればいいか、そのヒントも劇中では描かれていたと思います。
そのひとつが、アレンの「影」と思われていた存在が実際は「光」であり、実体となっているアレン自身のほうが影だったと示されたことです。それはつまり、人間の心には悩みや抑えられない衝動、つまり影(心の闇)が基本としてあることを認め、かつ光(希望)を探して受け入れる必要があるのではないか、という提言なのでしょう。
さらに、ラストでは、アレンとハイタカがともに牛の世話をして、「テルー」と「テナー」は畑に種を撒き、夕食時には4人で家の食卓で笑い合う……といった「何気ない日常」が描かれていました。それは「生きるために必要なこと」かつ「善意」であり、それを続けることが世界と人間がより良くあるために必要なもののようにも思えてきます。そして、それでこそ父殺しのような、恐ろしい悪意の表出を防げるのではないでしょうか。
なお、鈴木プロデューサーは「現在の“過保護に育てられている子どもたち”が、監視から逃れ、自由を手にしたい、自分を見つけたい、そういう時に、1つの道を指し示す映画になりうる」とも考えていたそうです。確かにそのような映画になっていますし、正しい道とは対局にある、もっとも間違っていて恐ろしい罪として、父殺しは上手く機能していたとも思えます。
参考文献:『ジブリの教科書14 ゲド戦記』(文藝春秋)『ロマンアルバム ゲド戦記』(徳間書店)
(ヒナタカ)



