賛否を呼び、誤解もあった『ゲド戦記』の「父殺し」改変 どんな意味があったのか
映画『ゲド戦記』における「父殺し」は、原作小説には存在しない要素でした。なぜそのようなセンセーショナルな要素を入れたのか、どのような意図が込められており、どのような賛否を呼んでしまったのか。振り返りましょう。
「父殺し」の改変を提案したのは?

2025年3月7日の「金曜ロードショー」で、スタジオジブリの映画『ゲド戦記』が放送されました。2006年の公開当時から激しい毀誉褒貶を呼んだ本作では、冒頭「父殺し」の是非も話題になっています。
主人公で「エンラッド」の王子「アレン」が父である国王を殺す序盤の場面は、アーシュラ・K・ル=グウィンさんの原作小説には存在しない、鈴木敏夫プロデューサーが出したアイデアでした。その原作改変にはどのような意図があり、その後の物語にどのような影響を与えたのかを、振り返りましょう。
※以下、映画『ゲド戦記』の結末を含むネタバレに触れています。
●「ケレンが必要」も意図のひとつだった
実は、宮崎吾朗監督が初めに描いたオープニングの絵コンテは「お母さんが主人公のアレンを逃してあげる」というものだったのですが、鈴木プロデューサーは「映画の冒頭には“ケレン”が必要」「吾朗くんも父親のコンプレックスを払拭しなければ世の中に出られない」という意図で、父殺しを提案したそうです。
吾朗監督のアイディアでも十分に引き込まれそうな気もしますが、より衝撃的な始まり方でケレンを作ることには一理あるとも思いますし、それが公開時から話題となっていたのは事実です。父殺しは作劇上のサービスであると同時に、おそらくは「センセーショナルなあらすじをもって作品を売るため」の要素でもあったのでしょう。
●吾朗監督は父を殺したがっていたわけではない
同時に、この父殺しの場面で多くの人が連想する「吾朗監督の父親である宮崎駿監督へのコンプレックスの払拭」という部分は、あくまで鈴木プロデューサーが意図したものであり、吾朗監督は決してそうは思っていないことには留意すべきです。吾朗監督は、鈴木プロデューサー考案のキャッチコピー「父さえいなければ、生きられると思った」を自分のことだと思われて困惑し、後に「僕は父がいても生きていけますよ」とも言っていました。
その吾朗監督は、父殺しの提案に初めこそ「え?刺していいんですか?」と驚いたものの、「若い頃には自分で自分をコントロールできなくなる、なぜ自分がそんなことをしたのかわからないことがあるんです」「その自分を取り巻いている隙間のない存在の象徴が父親だと思ったんです」と、「腑に落ちたところもある」とも語っています。
吾朗監督は自分と宮崎駿監督の関係ではない、もっと普遍的な若者が父に抱く心情の表現を意図していたと言っていいでしょう。少なくとも「吾朗監督は父の宮崎駿監督を殺したいと思っていた」というのは、誤った解釈です。
●「唐突」「感情移入ができない」ことに批判も寄せられた
鈴木プロデューサーは父殺しに「物語上のケレン」「父親のコンプレックスの払拭」といった意図を込めたものの、当時「唐突に感じた」「アレンに感情移入ができない」といったネガティブな声があがったのも事実です。
そのうえ、アレンは後に「分からないんだ、どうしてあんなことをしたのか」「ダメなのは僕のほうさ。いつも不安で自信がないんだ。それなのに時々、自分では抑えられないくらい、凶暴になってしまう」とも語っています。
若者の普遍的な心情を汲み取る意図があったにせよ、父殺しというどうしても動機が気になる重い物語の始まりを用意したにも関わらず、結局は「分からない」と劇中ではっきり言ってしまうのは問題という見方もできます。また、全体的にも「登場人物の言動が唐突」「しかもセリフが説明的」だと、批判が寄せられていました。