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宮崎駿監督幻の米デビュー作『リトル・ニモ』 企画途中で離脱も、数々の出会いと「名作」が生まれ…

米側プロデューサーの独断専行で暗雲が…

丁寧な生活描写でディズニー関係者をもうならせた高畑勲監督の『じゃりン子チエ 劇場版』DVD(ウォルト・ディズニー・ジャパン株式会社)
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 原作者ウィンザー・マッケイの遺族や関係者と映像化の交渉にあたる際も、藤岡豊氏は『ルパン三世 カリオストロの城』を上映したそうです。当時、アメリカの関係者の間で日本のアニメの評価は低く、日本に長編劇場アニメがあることさえ疑われるほどだったそうです。しかし『カリオストロの城』や『じゃりん子チエ』の2コマ打ちと3コマ打ちを使い分けたメリハリある動きや、日常的な仕草における丁寧な芝居、含蓄に富んだ人間描写が若手のアニメーターを中心に話題となっていきます。

 1966年にウォルト・ディズニーが死去してから十数年、アメリカのアニメ業界も世代交代が進み、新しい表現が注目されていた時期だったのです。イタリアからテレコムにTVシリーズ『名探偵ホームズ』の制作依頼が来るなど、思わぬ反響も呼びました。

 そして1981年の春頃、アメリカ本国に法人会社キネト・TMSを設立し、映画『NEMO/リトル・ニモ』は制作へ向けて本格的に動き出します。アメリカ側のスタッフとしてディズニーの伝説的存在のアニメーター、フランク・トーマスとオーリー・ジョンストンを顧問に、「スター・ウォーズ」シリーズで知られるゲイリー・カーツをプロデューサーとして迎えました。そしてゲイリー・カーツの推薦で、SF作家のレイ・ブラッドベリーがシナリオを担当。当時としては、驚くほど豪華な布陣でした。

 ここで映画の内容についてはゲイリー・カーツ氏、予算など制作上での管理は藤岡豊氏と、ふたりのプロデューサーの役割が振り分けられました。

 翌1982年の初夏、レイ・ブラッドベリー氏によるシナリオの第一稿が日本側のスタッフに届けられました。ふたりの人格に分裂したニモが夢の世界の深部に入り込み、もうひとりの人格を倒して、現実世界に帰還するという、幻想的な夢の世界への冒険譚であった原作に心理学的な解釈を加えたもので、読んだ日本側のスタッフはエンターテインメントとして成立するのかどうか、首を傾げたそうです。

 この時点で、日本側の演出候補に宮崎駿と高畑勲の両名があがっていましたが、実は宮崎駿は、夢の世界が舞台と公言した作品では観客が没入できないと、かなり早い段階で『NEMO/リトル・ニモ』の企画には否定的でした。そしてこの第一稿を読んだ宮崎駿は、ゲイリー・カーツに自身が考える娯楽映画の要素をまとめたレポートを後に提出し、却下されました。

 当時アメリカではプロデューサー主導で映画制作が進むことが多かったのですが、この頃ゲイリー・カーツ氏は別の作品の制作も同時進行しており、日米の現場にあまり現れなかったそうです。たまに現場を訪れては、シナリオをもとにアニメーターが描いた膨大なイメージボードや設定を取捨選択していきますが、その判断基準が明かされないので、現場は疲弊していきました。特に、監督主導の現場でイメージを共有しながら作り上げていくスタイルだった日本側と徐々に軋轢(あつれき)が生じていきます。

【画像】『NEMO/ニモ』製作時に種はまかれていた? 世界が絶賛した宮崎駿監督作品(6枚)

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