「ジブリ作品=宮崎アニメ」のイメージはいつできた? 『海がきこえる』と『耳すま』に転機が
若手制作集団が作り上げた『海がきこえる』 ジブリとしては異質な作品に

そして雑誌「アニメージュ」1989年9月号には、宮崎駿氏による「スタジオジブリ新人アニメーター募集おしらせ」が掲載されました。アニメーターと演出助手の志願者を募集するもので、研修期間は1年間です。
この募集で、後に『かぐや姫の物語』などで作画監督を務める小西賢一氏や、『もののけ姫』『千と千尋の神隠し』の作画監督の安藤雅司氏ほか、『交響詩篇エウレカセブン』『ガンダム Gのレコンギスタ』のキャラクターデザインの吉田健一氏、『鋼の錬金術師 嘆きの丘の聖なる星』『翠星のガルガンティア』の監督を務める村田和也氏ら、そうそうたる人員を含む16人が採用されています。
そして、このスタジオジブリ新人アニメーターたちが実力を発揮する場となったのが、1993年に日本テレビで放送されたテレビスペシャル『海がきこえる』でした。
1992年春、『紅の豚』に続く長編企画として、宮崎駿氏と鈴木敏夫氏は、自分たちが極力関与しない若手を主体とした作品制作を立案します。その原作として選ばれたのが「アニメージュ」に連載していた氷室冴子氏による小説『海がきこえる』だったのです。
監督はかねてより氷室作品のアニメ化を希望していた亜細亜堂の望月智充氏。キャラクターデザインと作画監督はかつてスタジオジブリに所属していた近藤勝也氏。脚本は「アニメージュ」編集部に所属していた中村香氏(現:丹羽圭子氏)と、基盤となるスタッフこそ外部から招きましたが、それを取りまとめるのは、本作が初プロデュースとなったスタジオジブリ所属の高橋望氏です。
プロデュースについても若手の自主性に任せたいと考えた鈴木敏夫氏は、前述のスタッフの推薦こそしたものの、打診や交渉、それ以降の実作業は高橋望氏に一任したそうです。
ジブリ初となる宮崎駿氏も高畑勲氏が関わらない作品を任された高橋望プロデューサーは、企画書内で本作の特徴のひとつとして「スタジオジブリ若手制作集団」という新ブランドの設定と、その制作体制を挙げています(ちなみに、この「スタジオジブリ若手制作集団」の命名者は宮崎駿氏)。
その中で「スタジオジブリ若手制作集団」を設立した目的として、募集から3年間かけて養成してきた新人アニメーターたちに作画の中心を担わせ、作品としての完成度よりも、若手ならではのパワーと思いを前面に押し出した作品の制作を目指すと記してあります。
テレビスペシャルとしての制作が決まっており、劇場作品ほどの予算もスケジュールも見込めない前提があったとはいえ、これまで完成度を重視してきたスタジオジブリとしては、異色のコンセプトです。
実際、前述のスタジオジブリ新人アニメーター陣の1992年当時の年齢は、本作で演出助手を務めた村田和也氏が20代末。制作中に原画から作画監督補佐に抜擢された安藤雅司氏、吉田健一氏、小西賢一氏は20代半ば。また同募集での入社ではありませんが、スタジオジブリ所属で準備段階から参加した美術監督の田中直哉氏も20代末でした。
またキャラクターデザイン・作画監督の近藤勝也氏が20代末、望月智充監督にしても30代半ばと宮崎駿氏、高畑勲氏らの作品に比べれば、大幅に若手ぞろいのスタッフィングです。
望月智充監督の意向もあり、本作では、彼ら若手スタッフが役職の垣根を超えてアイデアを出し合い、それらの意見は内容に色濃く反映されたそうです。
そうして若手スタッフが力を集結させて、青春時代の繊細な心の動きを、より現実的に、より同時代性を打ち出して映像化した『海がきこえる』は、スタジオジブリ作品としては異質な仕上がりとなりました。 スタジオジブリの関係者からは、主人公たちの性格が脆弱すぎるとの批判の声があがったとも伝えられています。
実際、未成年者の飲酒・喫煙シーンなども含むリアルな描写の文芸路線である本作は、普遍的で寓話性に富んだ宮崎アニメとは対照的といえるでしょう。







