アニメ「1980年の変」? 富野監督の暗黒面が発動、宮崎監督は偽名に
『機動戦士ガンダム』でアニメ界の新時代を切り開いた富野由悠季監督は、続く『伝説巨神イデオン』で商業アニメの限界に挑むことになります。アニメ界の二大巨匠、宮崎駿監督と富野監督にとって、1980年は「エアポケット」に入ったような状況でした。『ルパン三世』第2期の最終回が放映されるなど、アニメ史において実に興味深い1年です。
1970年代の終わりにひとつのピークを迎えた「アニメブーム」
1980年は人気アイドルの山口百恵さんが結婚を機に芸能界を引退し、松田聖子さんがで歌手デビューした年です。松田聖子さんが歌うシングル曲「青い珊瑚礁」はスマッシュヒットし、「聖子ちゃんカット」が大流行します。
映画界では、フランシス・F・コッポラ監督の戦争映画『地獄の黙示録』(1979年)や『スター・ウォーズ 帝国の逆襲』が日本でも公開され、黒澤明監督の時代劇『影武者』、日露戦争を題材にした『二百三高地』、草刈正雄さんが主演した『復活の日』もヒットしました。また、この年はモスクワ五輪が開催されましたが、ソ連のアフガニスタン侵攻に抗議した米国は五輪参加をボイコットし、日本もこれに追随します。
そしてアニメ界はというと、劇場版『宇宙戦艦ヤマト』(1977年)が爆発的な人気を呼んで以降、「アニメブーム」が継続していました。1979年に『機動戦士ガンダム』がTV放映され、『ルパン三世 カリオストロの城』が劇場公開され、日本のアニメシーンは1970年代の終わりにひとつのピークを極めた感があります。
日本のアニメ界が早くも爛熟(らんじゅく)期を迎えた「1980年」を振り返ってみましょう。
「皆殺しの富野」にあ然とした『伝説巨神イデオン』
富野喜幸(富野由悠季)監督の存在は、1979年に放映が始まった『機動戦士ガンダム』で一躍知られるようになりました。しかし、『機動戦士ガンダム』の視聴率は伸び悩んだままで、1980年1月26日に第43話「脱出」で、予定より早い最終回を迎えました。
熱狂的なファンがいることから、『機動戦士ガンダム』の劇場版が1981年に公開されることはすでに決まっていました。この時期の富野監督は、劇場版『機動戦士ガンダム』の制作と並行して、5月からオリジナル新作『伝説巨神イデオン』(テレビ東京系)をスタートさせます。地球人が植民惑星「ソロ星」で異星人文明の遺跡を発掘し、無限のエネルギーを秘めた伝説の巨神を甦らせてしまうという、壮大なスケールのSF作品でした。
アムロが戦場を脱して、ホワイトベースの仲間たちのもとへと向かう『ガンダム』の最終回に感動したファンは、『イデオン』にも期待しました。しかし、主人公の「コスモ」たちは異星人である「バック・フラン」から追われるだけでなく、同じ地球人類からも嫌われ、宇宙をさまよい続けるという、どこまでも暗い内容に戸惑うことになります。無限エネルギーが発動し、人類もバック・フランも全滅して終わりという最終回には、あ然とするしかありませんでした。
富野監督のロングインタビューを掲載した『富野由悠季 全仕事』(キネマ旬報社)を読むと、番組スポンサーが用意した「イデオン」のデザインを富野監督は気に入っておらず、「シリアスドラマでワーッと押し切るしかない」状況だったと明かしています。富野監督も劇場版『ガンダム』の作業に追われていました。『ガンダム』という利権に、多くの大人たちが群がる様子も見ることになります。富野監督の心情が、そのまま『イデオン』に投影されていたように感じます。
イデオンという巨大ロボットをよりしろにして、ひとりのアニメ監督の心のダークサイドが発動してしまったのではないでしょうか。商業アニメの枠組みのなかで、よくここまで吹っ切った物語を描くことができたものです。『ガンダム』が大ヒットすればするほど、『イデオン』の持つ闇の深さも感じずにはいられません。『ガンダム』と『イデオン』は表裏一体の作品だといえるでしょう。
富野監督はさらに劇場版『IDEON 接触篇』『IDEON 発動篇』(1982年)を手掛けます。「皆殺しの富野」という異名が広く知られるようになり、庵野秀明監督の『新世紀エヴァンゲリオン』旧劇場版(1997年)に強い影響を与えています。