高畑勲監督が『火垂るの墓』で描いていた「戦争より恐ろしいもの」とは? 「全く人ごとではない…」
反戦映画では戦争はなくならない
戦争の悲惨さを非戦闘員である子供たちの視点から描いたアニメ『火垂るの墓』は公開時から高く評価され、多くの小中学校で『火垂るの墓』を観た感想文を書きましょう、という課題が出されたようです。
ところが、高畑監督は『火垂るの墓』は「反戦アニメではない」と語っています。どれだけアニメで戦争の残酷さを描いても、戦争がなくなることはないというのが高畑監督の持論でした。「なぜ、戦争は起きてしまうのか?」ということを問題にしないと、戦争はなくならないと高畑監督は考えていたのです。『火垂るの墓』=反戦アニメとただ持ち上げるだけでは、思考停止状態と何も変わらないわけです。
そして何より、『火垂るの墓』は戦争よりももっと恐ろしいものを描いていました。
戦争よりも恐ろしいものの正体とは?
実家と母親を失った清太と節子は、西宮で暮らす叔母さんの家に居候することになります。空襲の凄まじさを知っている清太は、市民防火活動に参加しようとはしません。母親が恋しい節子は、たびたび夜泣きします。そのため、近所の目を気にする叔母さんは、育ち盛りの清太と節子のことを「疫病神」扱いします。
海軍将校の父親と優しい母親から愛情をたっぷり浴びて育てられた清太と節子は、叔母さんの家での息苦しい共同生活に耐えかねて、町はずれの横穴でままごとのような生活を始めます。束の間の開放感を味わう清太と節子でしたが、食料はすぐに尽き、やがて兄妹ともに栄養失調に陥ってしまいます。すでに戦争は終結したにもかかわらず、悲劇的な結末をふたりは迎えることになるのです。
清太が頭を下げて、節子をなだめながら叔母さん宅で暮らしていれば、なんとか終戦後も生き延びることはできたのではないでしょうか。戦時下の常識を盾に、幼い兄妹を家から締め出した叔母さんは、言ってみれば「世間」を象徴する存在でしょう。「世間」に迎合することができず、清太と節子は居場所を失ってしまったのです。
確かに、清太と節子が悲劇的な状況に陥ったきっかけは「戦争」です。しかし、ふたりを死へと追い詰めたのは「世間」でした。両親と暮らした平和な家庭生活を兄妹は懸命に守ろうとしたのですが、「世間」はそれを許しませんでした。高畑監督が『火垂るの墓』は「反戦アニメ」ではないと語った真意は、そこにあるのではないでしょうか。
戦争を始めるのは政治家たちですが、それを後押ししているのは「世間」です。そのことを忘れずにいたいものです。
(長野辰次)



