スタジオジブリの物件探しで高畑監督らが「門前払い」? アニメ界の重鎮らが気づいた「死角」
『天空の城ラピュタ』で本格始動したスタジオジブリですが、制作スタジオを借りるまでに「一波乱」がありました。
『ナウシカ』で知名度を上げたはずだったが……?

「スタジオジブリ」というからには、「スタジオ」がなくてはなりません。
1984年3月公開の『風の谷のナウシカ』は興行的な大成功を収めましたが、この時の制作は「トップクラフト」という会社であり、まだ「ジブリ」はこの世に存在していませんでした。宮崎駿氏、高畑勲氏、そして鈴木敏夫氏らにとって、劇場用アニメ第二作を制作するにあたり、拠点の決定は喫緊の課題でした。当時、まだ徳間書店の社員だった鈴木敏夫氏は、社長に、徳間書店が制作スタジオを持ってはどうかと提案し、これが可決されると、ようやく「スタジオジブリ」という会社が発足したのです。『ナウシカ』公開から3か月後のことでした。
さて「ジブリ」が発足したといっても、まだそれはあくまでも登記上の話です。実際に、「ジブリ」が動きだすのは『天空の城ラピュタ』の制作が決定した後になります。ここでようやく、ジブリの中心メンバーは制作拠点となるスタジオの物件を探し始めるのでした。ところが、なぜか不動産屋からは門前払いを食らってしまうのです。いったい、どうしででしょうか。
この時、不動産屋を回っていたのは3人です。東映動画出身で、元トップクラフト社長、また「ジブリ」では常務取締役に就任していた原徹氏、そして高畑勲氏、鈴木敏夫氏です。この時、宮崎駿氏は『ラピュタ』のロケハンのためイギリスに行っており、留守でした。
宮崎氏が出した物件の条件は「窓が大きく、ワンフロアー」「環状8号の外側」ということで、原、高畑、鈴木の3氏は中央線に沿って不動産屋を順番に回っていったのですが、なぜか不動産屋も相手にしてくれません。会社があっても、制作スタジオがなければ、アニメは創れません。確かに「制作会社」は収入的に不安定かもしれませんが、「ジブリ」の場合は『風の谷のナウシカ』という実績、そして何より徳間書店が出資してくれているのです。
断られる理由がわからなかった3人は互いの姿を眺め、そしてひとつの結論に達します。
すなわち、「スーツを着ていないからでは」ということです。なるほど元トップクラフト社長の原徹氏こそスーツでしたが、高畑氏も、鈴木氏も、この時は薄手のジャンパーでした。あの教養高い高畑氏、そして徳間書店社員で『アニメージュ』副編集長を務めていた鈴木氏、この両氏をもって、そこが「死角」になろうとは。
ということで3人は、気を取り直してスーツ姿で物件探しを再開し、ほどなくして吉祥寺駅の近くで物件を見つけることができました。世界の「ジブリ」の幕開けは、服を着替えることから始まったのです。
さて、もしこの時、原徹氏ではなく、宮崎駿氏が物件探しのメンバーだったら……なんとなくですが、もっともっと難儀したのではないかと、勝手ながら想像してしまいます。
(片野)
※参考書籍:『ジブリの教科書2 天空の城ラピュタ』



