マグミクス | manga * anime * game

『もののけ姫』ラストでアシタカはなぜタタラ場に残った? 「共に生きよう」に隠された“ヤバすぎる覚悟”【ネタバレ考察】

なぜアシタカはタタラ場に残った?

タタラ場の女性たちと汗を流すアシタカ。(C)1997 Studio・Ghibli・ND
タタラ場の女性たちと汗を流すアシタカ。(C)1997 Studio・Ghibli・ND

 本作の終盤、アシタカはサンに向かって「サンは森で、私はタタラ場で暮らそう。共に生きよう」と告げます。この発言は、アシタカがサンのことが好きなので一緒に生きていきたいという意味もあるでしょうが、別の決意もあるのではないかと思います。

 タタリ神の呪いを受けて故郷を後にしたアシタカは、古い神がタタリ神になった理由を「曇りなき眼(まなこ)で見定める」ために旅に出ています。森を破壊するタタラ場は自然破壊の代表者として本作に登場しますが、同時に行くあてのない虐げられていた人々を受け入れるコミュニティでもあります。

 アシタカはそんな現実を目の当たりにして、物語の中でずっと「森とタタラ場、双方生きる道」を模索して、どちらにも肩入れしない存在としてふるまい続けています。

 アシタカは分断された世の中で、中道を目指して頑張っている人だと言えます。

 これは非常につらい選択です。こういう立場は両方から批判されやすいからです。タタラ場で暮らすという決意は、一見すると人間側に立つという風にも聞こえますが、その後すぐ「共に生きよう」と言っているので、これからもアシタカは森と人間が共に生きられる道を模索するということなのだと考えられます。

 ただ、サンが好きだというだけなら森で生きればいいわけですから(森で生きられるかどうかは別として)、わざわざ困難な道を歩もうとしているのです。

 昨今、世の中の分断が激しくなる一方だからこそ、アシタカの生き方は公開時よりも鮮烈に感じられます。本作は簡単に流されずに分断をつなぎとめる橋渡しの役割を担う人の重要性をも描いているのではないでしょうか。

●生と死も対立概念ではない

 そうした二項対立に陥らない姿勢として究極の態度が本作の「生と死」の描写に表れています。

 緑が戻った大地を見つめ、サンは「シシ神は死んだ」と絶望します。それに対しアシタカは、「シシ神は死なないよ。生命そのものだから。生と死と、両方持っているもの」と答えます。

 このアシタカのセリフを証明するように、シシ神は初登場シーンで、歩いただけで足者との草木を活性化させ枯らす描写がされています。命を奪うのか、与えるのか、どっちなのかよくわからないと一瞬思いますが、そもそも生と死も、本作では対立概念ではないということなのでしょう。

 むしろ、死は生にとっても必要なものと言えます。シンプルに、人間が食べる食物も何かしらの死骸です。植物だろうと動物だろうと同じです。生きる糧として人も動物も「死」を必要としています。生命の循環とはそういうものです。生と死両方持つシシ神はまさにそんな生命の循環の象徴なのかもしれません。

 一つひとつの命に注目すると、死は恐ろしいものですが、世界全体でみれば死は別の生の糧となっています。『もののけ姫』の死生観は、人間だけを見つめていてはなかなかたどり着けない境地だと思います。

 人間の生存が危ういから自然を守ろうという話では決してないのが『もののけ姫』のすごいところです。人間の立場を超えて自然と人間の関係を見つめる先に、死もまた生命のために必要なものであるということまで言ってのけた、すごい作品なのです。

(杉本穂高)

【画像】え…っ!「アシタカがサンにプロポーズ?」 こちらが衝撃設定が明かされた『もののけ姫』絵コンテ集です(2枚)

画像ギャラリー

1 2

杉本穂高

杉本穂高
映画ライター。実写とアニメーションを横断する映画批評『映像表現革命時代の映画論』著者。様々なウェブ媒体で、映画とアニメーションについて取材・執筆を行う。
https://x.com/Hotakasugi

杉本穂高関連記事

もっと見る

編集部おすすめ記事

アニメ最新記事

アニメの記事をもっと見る